「珍しい、」と菊は思った。先ほどまで食い入るように桜を仰いでいた異国の姫君、が草むらでとても気持ち良さそうに居眠りをしているのだ。彼女は大抵、桜をみたあとは「これで失礼いたします」と言って綺麗にほほ笑むのだけど、居眠りをしてしまうなんてよほど疲れているのだろうと菊は考えた。屋敷に戻った菊は毛布を取り出して草むらですやすや寝息を立てているの肩にそれをかけた。思えば情勢が大きく変わってからというもの、は息をつく暇もなく公務に追われていたように思う。以前はしょっ中桜を見に来日していたというのに、このごろはめっきり少なくなったなあと思っていた矢先、は突然やって来た。

「 菊さん… 」
「 ア…?どうしたんですか?何か… 」


あったんですか、と最後まで言わせずに、は力なくほほ笑むと足早に菊の庭に向かった。「わたしがあまりにも浅はかでしたね…」菊はの隣に腰かけて、そっと溜息を吐いた。そうだ、はいつもどことなく疲れた様子でここへ来ていた。会話の合間には決まって「ここが落ち着くんです」と言う台詞があったと思いだされる。「…」しばらく寝かせておこうと決めた途端、睡魔に襲われ菊もまたの隣で居眠りをはじめた。


「 …ん、ここは 」


日差しも弱くなってきたころ、は我に返ったように眼を覚まし不意に大声を出しそうになった。「び、吃驚したあ…菊さんか…」「ん……?眼が覚めましたか」「わあ菊さん!こ、こんにちは…」「こんにちは。があまりにも気持ち良さそうに眠っていたのでわたしまで眠ってしまいました」そういうと菊ははにかむように笑い、ゆっくりと起き上がる。も菊に習って起き上がり、大きく背伸びをする。そうしたらなんだか気分がスッとするような気がして、気持ちが軽くなった。


「 ―――― やっぱり、菊さんの家は落ち着きますね 」
「 そうですか?それは良かったです。どうせですから、きょうは泊って行きませんか? 」
「 ええ!?でもそんな…菊さんに迷惑はかけられないです 」
「 おや、それはいまさらだと思いますけど…そう思っていたのはわたしだけでしょうか 」
「 うっ…それは… 」
「 それに、一日くらい公務を休んでも、エリザベスさんは怒ったりしませんよきっと 」
「 菊さん… 」
「 むしろ休まれたほうが、エリザベスさんもリヒテンさんも安心するかもしれませんね 」


終わりそうにない菊の言い分に、屈伏するしかない。だけども菊は最後に決まって笑みを浮かべ「任せてください、あちらにはわたしから連絡を入れておきますから」と言ってを屋敷に追いやるのだ。こうなると流石のもノーとは言えなくなってしまうのだ。もちろん菊はのそんな性格を理解したうえでそんなふうに言っているということを、も知っている。だからもう、最後には笑って受け入れるしかなくなるのだ。「きょうは寒いので、シチューにしましたよ」「わあおいしそう!菊さん、お料理お上手なので楽しみです」「スコーンは出てきませんのでご安心ください」「ふふっ、はい。アーサーさんきっといまごろくしゃみをしているでしょうね」そう言って、が笑う。


「 …良かった 」
「 え? 」
「 が笑うと、わたしも嬉しくなります 」
「 菊さん… 心配をさせてしまって、すみません 」
「 良いんですよ、これもわたしの仕事です。年よりの言うことは聞いておくものですよ 」
「 年寄りって…ふふっ。でも…はい、そういうことにしておきます 」
「 いまいち釈然としませんが…まあ良いでしょう。冷めないうちに食べますよ、 」


「はい」食事の準備を手伝いながら、はふっと笑みを浮かべた。「んーやっぱりおいしいです、菊さんのお料理!」「気に入っていただけたみたいで良かったです。でもだって上手じゃないですか、料理」「でも菊さんほどじゃあないですよー、だからわたしフランシスさんとかすごくうらやましいんです」「そうですね。でもにはわたしたいちよりもたくさんたくさん、良いところがあるんです」「菊さん…」食事を終えたらしく、静かにスプーンを置いたはお茶を飲むとそっと溜息を吐いた。


「 ? 」
「 国民は…わたしのだいすきなひとたちは…主君を必要としているのでしょうか… 」
「 どうしたんですか?突然、 」
「 わたし…仕事に追われる中で思ったんです。こんなことをして、ほんとうに国民のためになるのかって 」
「 。それは国を治める者ならば、誰でも一度は思うことだとわたしは思っていますよ 」
「 菊さん…でもでも、ほかにも出来ることがあるはずだって、わたし 」
「  」
「 は…はい 」
「 こんなことを言っても…いまのには気休めにしかならないかもしれませんが 」
「 …? 」
「 は十分、ご自分に出来ることをしていると思います 」
「 菊さん… 」
「 いつも遠くから見守ってきた年寄りがそう言ってるんです、間違いありません 」


菊があまりにも優しく、それでいてきれいに笑うから、はとうとう涙をこらえきれなくなってしまった。人前で泣いたのは、ほんとうに久しぶりだなあなんて思いながら ―――― その相手が菊で良かったと胸の内に秘めながら静かに涙を流した。「落ち着きましたか?」「菊さん…ありがとうございます」「落ち着いたら、お風呂にでも入って来てください。わたしは片づけをしていますので」「そんなことはわたしが…!」「一国の姫君に、そんなことはさせられませんよ。どうぞお構いなく」「か…重ね重ねすみません…」「こちらこそ」菊はそう言ってほほ笑み、浴室に消えるの背中を見送った。そうして、次の日。


「 菊さん、いろいろ…ありがとうございました 」
「 またいつでもいらしてください。お会いできる日を、楽しみにしています 」
「 ―――― はい 」
「 あっ、ひとつ良いですか 」
「 なんでしょう? 」
「 あなたの涙を見ながら、わたし思ったんです。この国の姫があなたで良かったと 」
「 菊さん… 」
「 わたしたちの選択は、間違っていなかったと思いました。
  同時に、あんなに思われている国民がうらやましく思いました。 …国民に嫉妬するなんて、おかしな話です 」


それは菊にしては珍しく、自嘲するような笑みだった。だからはほほ笑んで、菊の手を包んだ。「あなたもです、菊さん」「?」「その中にはちゃんと、菊さんも入っていますよ」「ありがとう…ございます。くれぐれも、無理はしないように」「お決まりのセリフですね。分かっていますよ!…それでは」はそう言って、菊に手を振りながら飛行機に乗り込む。菊もまた、そんなの様子を微笑ましく見送りながら、空を仰いだ。こんなにもすがすがしい気持ちはほんとうに、久しぶりだった。


二度目の世界は美しかった