「あした、イヴァンの家へ発つ?」エリザベータからそんな話を聞いたバッシュはうめき声のする牢獄の扉を閉め、プラチナブロンドの髪をなびかせている女性を見やった。なぜ監視官の自分が牢獄の扉を閉めたのかと言うと、目の前にいるこの女性が「地下の監獄を嫌っている」と言う事実を、いま公務に励んでいる姫君から聞いていたからである。ふとエリザベータの表情を盗み見てみれば、ホッと安堵の表情を浮かべているのが分かる。嬉しい反面、この仕事をしている自分にしてみれば素直に喜べないのもまたほんとうのところだ。


「はい。姫様がお伝えするようにと、言伝を頼まれました」
「なるほど。そのような用事でもなければ、好き好んでこのような場所には来ないか…」
「えっ?いやあの、あたしは別にバッシュさんがどうっていうわけではなくて!」
「ククッ、すまない。困らせるつもりはなかったんだが…いや、ほんとうに」
「も…、もうバッシュさん!そんな意地悪を言うならこれから報告に来ませんよっ」
「それは困る。姫を守るのも吾輩の務めだからな」
「バッシュさん…分かりましたよ。あした9時に、ヘリポートにお越しください」
「分かった。その間の変わりは、誰なのだ?」
「あ、フランシスさんです。あしたは日中姫様がご不在ですので、夕食の時間までなら大丈夫だと」
「ふむ、あやつか…少々心配ではあるが…まあ問題はなかろう。フェリシアーノよりは、な」


そう言ってバッシュが笑うと、エリザベータも「はい」と言って少し困ったように笑った。そうして翌日、午前9時。先日の夕方エリザベータに言われたとおりヘリポートにやって来たバッシュは、専用ジェット機の入り口でがやって来るのをいまかいまかと待っていた。約束の時間から5分ほどすぎたころ、たくさんの書類を抱えたエリザベータとあわてた様子のが現れて、ホッと安堵の笑みを浮かべるバッシュ。「お待たせしてすみません、バッシュさん!きょうは、よろしくお願いします」「ああ、こちらこそ。全力で(あやつの不審な行動から)姫をお守りする」敬礼してそういうと、ほんの少し首を傾げたはジェット機内へ、潜在的な言葉の意味に気付いたらしいエリザベータはニコッと満面の笑みを浮かべて、トントンとバッシュの肩をたたいた。


「イヴァンの家へは、どのくらいなのだ?」
「えっと、5時間ってとこです」
「ほお、結構な長旅だな…」
「ふふ、そうですね。でもゆっくり眠れるのでありがたいです」


はそう言って笑ったが、バッシュの胸の奥はちくりと痛んだ。それほどに、眠る時間がないほどに、国々のことを考えている。それなのに、平和を取り戻すことがない不条理な世界―――憤りを感じないわけがない。そのために、は日夜動いている。それなのに、自分に出来ることはこれくらいだなんて、血も涙も出ない。姫に言わせれば「そばにいてくれるだけで心強いです」とのことらしいが、そんな言葉は自分にとって、気休めにしかならない。そのことを分かっていて、はそんなふうに言ってくれる。そんな彼女だからこそ、身を呈して守りたいと思う。ほかの誰でもない、この自分が。「ほかの者に、姫を任せられぬ」バッシュは機内にいる間、の寝顔を見つめてすごした。


「ん−、バッシュさんにお会いするのも、ほんとうにお久しぶりですね!」


背伸びをしながらバッシュの家の玄関をたたくに、「無理をするでないぞ」と声をかける。そうするとやはりからは「バッシュさんは心配しすぎですよっ」と返されてしまった。なんとも、姫らしい返答だ。しばらくレッドカーペットを歩いていると、イヴァンの姿を見つけたがとても嬉しそうに駈け寄り、あいさつをする。ただその何気ない光景を見ているだけで、胸の奥にかすかな苛立ちを覚えた(イヴァンだけじゃない、姫がアーサーやほかの人間と楽しそうに話している場面に遭遇するたびこんな有様だ。コントロール出来ない自分がまた、情けない)。心中を占めている張本人はと言うと、イヴァンに紅茶をもらってすごく嬉しそうにしている。


「も…もう!心臓に悪いですよっイヴァンさん!」
「あはは、真っ赤な顔をしたもほんと可愛いなあ…おっとそんな怖い顔をしないでくれよバッシュ」
「そのような顔をしている覚えはない」
「はは、ほんときみたちは楽しいなあ。からかい甲斐があるというかなんというか…ごめんごめんもう冗談は言わないよ」
「もーイヴァンさん!これじゃあお仕事になりませんよっ」
「まあ僕にとってはそれでも良いって思ってるけど…はいはい真面目にやるよ」


どうやらようやく、視線の意味に気づいてくれたらしい。観念しましたと言う態度を示したバッシュを見て、ため息を吐くバッシュ。こうでもなければ、もう国交どころの話ではなくなる(下手をすればお見合い話に発展しなくもない)。最悪の場合、正当防衛を理由に武装する覚悟も厭わない。それくらいの覚悟がなければ、姫を守る仕事なんて出来っこない(と、自負している)。事実統合される以前なんて、脱線に脱線を重ねたフランシスとの会合でもバッシュの陰ながらの努力があってこそ、いまのように落ち着いているのだ(陰ながらの努力と言うのはもちろん、武装のことだ)。余計なことを考えているとイヴァンと目が合い、異様な空気がちらついていた。


「すまないけど、席をはずしてくれるかい」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。大丈夫、にはなにもしないから」


そう言われ、仕方なくドアノブに手を伸ばし「ほんとうだろうな」と言う意味をこめてイヴァンに視線を送る。イヴァンは笑いながら頷き、最後にに「なにかあったら、すぐ飛んでくるからな」と言い残し部屋を出た。誰もいないイヴァンの家の廊下は、妙にひそりとしていて寒々しかった。扉の向こうから、イヴァンたちの国交話が聞こえる―――珍しく、まともに仕事をしているようだ。途端、穏やかに話を進めていたはずのふたりの部屋からガタン、という物音が聞こえ、イヴァンはあわてて部屋に駆け込んだ。そこにはソファで眠っていると、いましがた舌打ちをしたイヴァンがいた(失礼なやつだ!)。


「そろそろ来るころだと思っていたよ」
「姫になにをした、」
「何もしてないよ?だいぶん疲れがたまってたんだね、急に眠りこんじゃった。
 のことお願いね(ほんとは君に頼むのも嫌なんだけど)」
「貴様、(余計なことを!)」
「僕を責めるより自分の仕事したほうが良いんじゃない?僕を責めたい気持ちは分かるけど、
 そんなことしたって(僕の大好きな)が―――きみの大事な姫様が悲しむだけだよ??」
「っ…失礼する!」
「うん、またね」


ところどころ余計な言葉が聞こえるような気がしないでもないが、反論の言葉を飲み込んでを抱える。話に聞いたとおり、は眠っているだけだった。なぜだか顔全体がものすごく熱を帯びているような気がする。それにあのとき、イヴァンの表情がすごく驚きに満ちていたような。ひょっとしたらならその意味が分かったかもしれないが、生憎彼女は夢の中だ。「いったい何がどうしたというのだ、姫よ…」サラリとの蒼い髪を撫でると、すうっと溶けるように指の間をすり抜けてしまった。「とにかく起きたら説明してやらないとな…」起きたときのの表情を思い浮かべ、自然とため息が漏れるバッシュだった。



寄り添うより慎ましく