第零話 はじめて、すべてをなくした。 すべて、なんて言うと大袈裟のように聞こえるかもしれないけれども、わたしにとってあのふたりは世界のすべて、だった。 わたしの世界を構成する、中心にあるもの。その中心がなくなると、胸の奥のほうにぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。 その存在が大きければ大きいほど、その空洞は大きく、黒く侵食されていく。それなのに、涙は流れないのだから不思議だった。 「わたし、ひとりになっちゃったのかな…ねえ、お母さん」 あれから、ひたすら歩いた。歩いて、歩いて、そうして辿りついたのが学校の屋上だった。 春になりきれないような、生暖かい風がまとわりつくように吹き抜ける。きょうは幸い学校もお休みで、だけれど部活生なんかがよく学校を出入りしていたから、学校は開いていた。世界の中心だったものがなくなったいま、ここにいる意味もない。だから、ひょっとしたらこの場所ですべてを終わらせよう、そのつもりでここに来たのかもしれない。すべて、終わらせてしまいたかったのかもしれない。 「さようなら、みんな…。ごめんね」 最早、誰に謝っているのかさえ分からなかった。ガシャン、とフェンスをつかむ音がやけに大きく聞こえた。 ゆっくりと身を乗り出すと、胸元でキラリと何かが光った。これは――「おばあちゃんにもらった、ロザリオ…?」そうだ。母親をなくした日に、母親から返されたものだと言っていた。持つべきなのは、娘のわたしだから・と言っていたらしい。その言葉の意味は、いまでも分からないままだけれど――これは母の、祖母の、たったひとつの形見。 いっしょに連れて行くのは気が引けたけれど、置いていても行き場がないのだ。連れて行かないほうが可愛そうだと思った。 「ひとつだけ、お願い。 …もし、わたしが…」 ヒュオ、と一陣の強い風が吹き抜けて、わたしは舞い上がる花びらとともに空を仰いだ。わたしの心とは裏腹に、ひどく青く澄み切った空を。 あのときはなんとも感じなかった青空が、こんなに憎らしく思えたのははじめてだった。笑われているようで ―― 「お前も逃げ出すのか」って、馬鹿にされているようで。だからわたしは肯定も、否定もせずに、ただ笑みでその空に手を振ってみせた――それが、最後。あの日、空に手を振ってしまってから、わたしは笑うことを忘れてしまったの。 ――――――汝に問う。真に生きる意志はあるか。 声が聞こえる。年老いた老人のような、だけれどそれでいてどこか神聖さを帯びたような声が脳内に直接響いてくる。 生きる意志はあるか、って?そんなの、答えは決まっているじゃない。そうでなければ、あのとき「死のう」だなんて思うはずがないもの。それなのに――どうして、迷っているんだろう。 もっとちゃんと「生きてみたかった」なんて後悔するのは、どうしてだろう。おかしい――こんなのって、おかしいよ。 ――――――今一度問う。汝、真に生きたいという意志はあるか。 ――――――分からない…、わたしは…どうしたら、 ――――――生きてみたら、良いじゃない。ねえ、。 また別の声が、そんなふうに言った。さて、この声はどこかで聞いたことがあうような気がするけれど、いったいそれはどこだっただろう。 ひどく懐かしい感じがする。とても、懐かしい気持ちになる。そうだ、生きてみれば良い。迷うのなら、その答えが見つかるまで、生きてみれば良い。 ――――生きて、みたい…もっとちゃんと、生きてみたい…! ――――汝の意思、しかと聞きうけた。これより先は、己の心に従え。 「己の、心に…」つぶやいてすぐに声は途絶え、かわりに自分を包んでいた光が増幅した。何かの存在を感じる。 暖かく、すべてを包み込んでくれるような存在を。わたしは目を閉じて、その光にすべてを委ねた。「お母さん…?」そういえば、さっきの声には聞き覚えがあった。 ひょっとしたら、両親の声だったのかな。分からない――だけれどそれも、生きてみれば分かる。そんな気がしていた。 ・ ・ ・ その街には、梅雨でもないのに狂ったように雨が降り続いていた。どれくらいか、なんて分からないくらい長い月日が経っているようにも思う。 おそらく3ヶ月ほどではないかと思うが、それも定かではない。先ほどまで患者の診察をしていた若い医師は、相変わらず晴れることを知らない窓辺を見つめて、盛大にため息を吐いた。「パパ?早くご飯にしようよ。冷めちゃうよ」娘の声が聞こえ、「分かったよ」と返事をする。そのときだった――ぱあっと外が明るくなり、雨の音が消えた。「な、なんなんだ…?」驚いて、診療所を出る。やはり雨は上がっており、雲は晴れようとしていた。小雨の舞う中、道端に横たえる少女の姿を見つけた。 「お…、おい!大丈夫か?」 「なになに、どうしたの? …おんな、のこ?」 つられるようにして娘が飛び出してくる。瞬間、当然のように身動きをとめる。ずっと雨に打たれていたのだろう、少女はびしょ濡れだった。 それに――「ひどい熱じゃないか…!マリア、診察の用意!」慌てて娘の名前を呼び、急遽診察を再開することになった。しばらく呆然としていた娘のマリアも、 我に返ったのか「は、はい!」と返事をして、また診療所のなかに消えた。自分は少女を抱え、ふっと空を仰いだ。あしたは久しぶりに、晴れ間が見られそうだ。 次項⇒ |