―― 何処からか、歌声が聞こえる。よく耳を済ませて聴いてみなければ鳥のさえずりと聴き間違えてしまいそうなほど繊細なそれは、 春になるまえの、少しだけ冷たい風に乗って、心地よくオレの耳元へ届いた。そうして、その歌声は空気といっしょに溶けて、その姿を変えた。 オレは木陰で読んでいた本を閉じ、ゆっくりと腰を上げて声のするほうへ向かった。そこには、かつてわずかな間だけだけれど旅をともにした少女、がいた。

、きみだったのか」
「ガイ!…あ、えと…いまはガイラルディア伯爵、でしたわね」
「かしこまらないでくれよ、にそう言われると妙に緊張するんでね」
「ご冗談を」
「それにオレ、まだ貴族ってもんになれてないんでね。
 出来れば昔みたいに気軽に呼んでくれたら助かるんだけどなあ」
「昔と言いましても、わたしそれほど伯爵様のことは存じ上げませんけれども?」
「なんか引っかかる言い方だなあ…まあ無理もないか。きみはずっといっしょに旅をしてきたわけじゃないんだしな」

オレが肩をすくめながらそう言うと、は春の陽だまりみたいにふんわりと微笑んで「ええ」と言った。まったく、旅をしていたころとぜんぜん変わらない。 穏やかなところも、令嬢でありながら何に対してもまったく動じないところも、歌が大好きなところも。それから、常に笑顔なところも。 彼女の変わっていないところを上げたりしたらきりがないけれど、とにかく何ひとつとして変わったところはない。総合的に言うととにかくは優しいのだ。 令嬢だから生まれつきもっての性格なのかもしれないが、オレはこの彼女の性格は本質なんじゃないかと思う。そう思ったら、なんだか嬉しくなって笑みがこぼれた。

「不思議だな。ちょっとまえまでばたばたしてたなんて嘘みたいだ」
「…はい。けれどそれは周りが少しずつ落ち着いてきていることの証拠だと思います」
「ああ、そうかもしれないな。きっと、きみの歌のおかげもあるんだろうな」
「いいえ、人々の力です」
「…らしいな。もう一度、歌ってくれるかい」
「…もちろん」

そう言って、はすうっと小さく息を吸い込んで、歌を歌った。この歌を聴いていると ―― なんだか不思議だ。時間を忘れる。そんな感覚に陥る。 その直後に、夢の中を漂っているような、不思議な浮遊感に見舞われる。ひと言に言ってしまえば、心地よいのだ。何度聴いても飽きないし、嫌にもならない。 魔法みたいだ、と言っても良いかもしれない。とにかく、の歌には不思議な力があると、彼女の歌を聴くたびにそう思う。そして、そう思うたびに笑いがこみ上げてくるんだ。 オレは、こんなに夢想するのが得意なほうじゃなかったはずだ、と。オレが笑い出すと、は少しだけ首をかしげて「どうしたんですか?」って尋ねる。 オレは「なんでもないよ」とだけ言って草むらに腰を下ろし、そうしてまたの歌声に耳を傾ける。こんな時間が、とても愛しく思えるんだ。

は、春みたいだな」
「…はい?」
「春みたいなんだよ。そんな心地よさがあるっていうか…うまく言えないんだけどね」
「ありがとうございます…?」
「…いまいちよく分からないっていう顔をしてるな…まあそれがらしいって言えばらしいんだろうけど」
「ガイさん?独り言ですか?」
「…ああ。まあ、そんなところかな。さて、そろそろお茶にでもするか」
「…そうですね」

言って、はまた微笑む。オレは時々、のことがものすごくうらやましくなる。どうしたらこんなふうに、みたいに穏やかになれるんだろう。 そして、その中には穢れや醜いものなど、何ひとつなくて ―― そう思うたびに、虚しくなる。何をいまさら、と。どう足掻いたって、彼女のようになどなれはしないのだと、 心の中の、もうひとりの自分がそう言葉を投げかける。出来ることなら、このままとずっといっしょにいたい。ずっとずっと、果てるときまでずっと。 オレは鼻歌交じりにお茶の用意をしているを見つめ、小さくため息を吐いた。そんなのは無理だと、無理に決まっていると分かっている。 オレがそばにいることで、に大きな負担を、重荷を背負わせることになる。それだけはだめだ ―― 何があっても、ぜったいに。

「…ガイさん」
「…え?」
「甘いものは大丈夫でしたか?チョコレ−トがあるんですけれど…」
「ああ、大丈夫だけど…きょうは何かプレゼントがあったのかい?」
「ガイさん、ご存知ないんですか?きょうはバレンタインデ−ですよ、2月14日です」
「ああ…そう言えばそんなものがあったなあ…」
「ガイさんって、イベントごとには疎そうですよね…見かけのまま」
「…どういう意味だい?」
「…なんでもないですよ。はい、無理はなさらないでくださいね?」
「…ああ、ありがとう。すまないな気を遣ってもらって」

オレがチップ状にされたチョコレ−トをつまんでいると、はほんの少しだけ寂しそうに微笑んで「いいえ」と言った。は、ほんとうに優しい。 不意にが「そうだ、ガイさん」と言うので顔を上げてみると、彼女の視線がとても近くにあったことに驚いて、オレは思わず後ずさりした。 その衝撃で椅子が反転して、オレは見事に転がり落ちた。それを見ていたは、少しだけおかしそうに笑みを浮かべながら「大丈夫ですか?」と聞いて来た。 はっきり言って恥ずかしいし痛かったのもあって大丈夫じゃなかったが、オレは平静を装って「ああ、大丈夫…だ」と言ってみせた。

「ガイさんって、ほんとうにお優しいんですね」
「…何処がだい?」
「だから無理はしないでくださいねって言ったじゃないですか」
「…まったく、きみにはほんとうにかなわないな。旦那も頭が上がらないわけだ」
「プライベ−トにまであのひとの名前を出さないでください。不愉快です」
「たいした嫌われようだなあ…まあ無理もないだろうけどな…。
「…はい?」
「オレは、のことまだ何も知らない…だから、もっと知りたいって思ってる」
「…はい」
は…その、どう思ってるんだい?」
「わたしも、ガイさんのこと知りたいです。旅の間はそんなにお話も出来ませんでしたし…。
 折角落ち着いてきたんですから、この機会にゆっくりお話しするのも悪くはないと…そう思いますけれど?」
「そっか…良かった。少しずつな」
「…はい。少しずつお話しましょう、ガイさん」

先ほどまでの不機嫌は何処へやら。いまはもう、オレの大好きなあの笑顔を浮かべて、歌うような声色でそう言った。やっぱり、の優しさにはかなわない。の、大きすぎる優しさには。この朝のように、すべてを優しく包み込むような、懐の深さには。そう思ったオレは両手を挙げて降参のポ−ズをとった。 そうだ、あせらなくて良い。少しずつ、少しずつ。こんな小さな時間を増やしながら、お互いのことを知っていけたら、それで良い。

、オレは…きみに、」

告げたいことがある。たった、ひとつだけ。

秘密を告げる朝