耳元で「もう良いわね」という声がして、わたしは思わず目を瞑った ―― 「37度9分。きょうは無理ね、」メイド友達の彼女はため息混じりにそう言った。 37度9分。38度近いその熱に、わたしもため息をつきたくなった。どうして、こんな大事な日に限って風邪をひいてしまうんだろう。 つくづく、自分の体力の無さを恨めしく思う。体力がないことは重々承知していたから体調管理には人一倍気を遣っていたし、うがい手洗いも欠かしていないのに、どうして。 兎にも角にも、いまとなってはそんなこと言い訳でしかないのだから、おとなしくしているしかない。

「じゃあ、ガイラルディア様にはわたしからお話しておくわね」
「え…ちょ、ちょっと待って!それだけは止めて」
「どうしてよ。何も言わないなんて、不審がるに決まってるでしょ。
 ガイラルディア様って、結構目ざといっていうか天然そうに見えて鋭いとこあるのよ」

分かってるよそんなこと、と言い返しそうになって「それは、」と口ごもる。そんなことわたしがいちばん分かってるよ。 だって、ガイとわたしは(公にはしていないけど)一応、世間一般に彼氏彼女と言われている恋仲、なんだから(改めて自分で言うとは、恥ずかしいなあ) だけどそんなこと言ってしまったら、彼女だって眉間にしわを寄せるに決まってる。きっとガイ ―― 「ガイラルディア様」と何か特別な関係にあるんじゃないかって思われちゃう。 そうなってしまったら。ううん、そうなるまえにわたしはガイと別れる、と思う。何よりガイに迷惑をかけたくない、し(こんなの逃げ、でしかないって分かってるつもりだけれど)

「だ、だってそれでなくてもお忙しいのに…わたしなんかのこと気にかけられたりしたら…」
「…ふう、それもそうよね…分かったわ、上手い具合に言っておく。だけどあんまり期待しないでね?
 もし、万が一ガイラルディア様が様子を見に来るようなことがあったら、失敗したんだって思ってちょうだい?」

そんな、最初から失敗しますって宣言するような言い方止めて欲しいなあ…!ガイに心配かけるっていうだけですごく…なんていうか不安、だし。 きっと、わたしなんかといっしょにいないほうが良いのに ―― そう言ったのに、それでもガイ、は。そのときのことを思い出して、自然とため息がもれる。 メイド友達の彼女はそんなわたしを見て首をかしげたものの、特に尋ねてくることはしなかった。 体調が優れない所為かしら、程度に思っていてくれたらそれがいちばんベストなんだけれど、実際のところは分からない。いまは、彼女の言葉を信じよう。 「じゃあわたしは行くわね」と言う彼女の背中を見送り、再びベッドの中にもぐりこむ。ああ神様、どうか彼女の言い訳が成功しますように。

「やっと起きたか、

目を覚ましてすぐ、わたしは思わず目を瞬いた ―― だ、だ、だって、どうしてガイ、が。あたりを見回すとまだ日は高くて、昼すぎなんだと認識する。 それなのに、どうして。だいたい、ガイはいまほかのお屋敷のパ−ティに呼ばれてるはずじゃ…。ぐるぐる考えていると、脳に軽い頭痛が走った。 思わず額に手を添えるわたしに「大丈夫か?」っていう心配そうな声が降りる ―― ああ、だから嫌だったのに。ガイに心配、かけるのは。

「どう、して…いまはパ−ティの最中のはずじゃ」
「いやあ、そのはずだったんだが演奏会以外はほとんどギャンブルみたいな感じでさ」
「…パ−ティなんだもん、賭け事くらいするでしょ?」
「まあな。けど俺がそういうのに興味持たないの、も知ってるだろ?だからおもしろくなくなってさ」
「途中で抜けて来ちゃったんだ…なんとも大胆だね…さすがガイラルディア伯爵」
「おいおい、そりゃ関係ないだろ−」

言って、いつもの朗らかな笑い声を上げる。わたしの、大好きな笑い声、そして顔。目の前にある、そのすべてが大好きで、見ているだけで幸せになれる。 同時に、かすかに寂しさがこみ上げてくる。わたしは、このひとにふさわしい人間じゃないんだっていう、感情とともに。 そんなわたしの不安を他所に、ガイは「それに、」と言葉を続ける。その言葉の続きは案の定「が心配だったしな」だった。

「ごめんなさい…わたしの所為で、ガイが」


不意に、声のトーンが低くなる。俯いていた顔を上げると、額が触れてしまいそうなほどにガイの顔が近くにあって、わたしは後ずさりをしそうになった。 その言葉の続きも、分かってる ―― 「謝るなって言っただろ?」でしょう?分かってるよ。だから、ガイが悲しそうな顔をするまえに、わたしは頷いた。 分かっている、っていう意味を込めて。それが毎度おなじみのやりとりになってきているから、ガイも「なら良いんだけど…さ」とため息を吐いた。 ねえ、ガイ。ガイは、こんなわたしといられてほんとうに幸せ、なの?そう思うたびに、ガイにはもっとふさわしい女の子がいるはずなのにって思っちゃう。

「また無理ばっかりしたんだろ。きのうは寒さの中庭の掃除してくれてたんだって?」
「だ、って…庭師のひとたいへんそうだったし…わたしも気になってたし」
「庭師のひとが?」

悪戯っぽく笑みを浮かべるガイに、わたしは頬を膨らませながら「庭のほうだよ!」とわずかに声を張り上げた。するとガイは「冗談冗談、分かってるよ」と言った。 これも、毎度お馴染みのやりとり。だからいつもとおんなじように「もう、」と殴りかかる。有名な話にあるとおりガイは女性恐怖症だから、もちろんふりだけ、だけれど。 仮に触れられたとしても、ガイにはまったく通用しないだろう、っていうことは十分承知だった。冗談なしに、ガイは強い。それは過去の経験からも言える。

「なんか欲しいもの、あるかい?」
「え、」
「え、じゃなくて。具合、悪いんだろ?寝てろよ、ちょっと出て来るから言ってみな」
「欲しいもの、じゃないんだけど…こんなこと言ったらすごく恥ずかしいんだけど…」
「なんだい?」

ガイに、そばにいて欲しい ―― いま、このときだけで良い。ほんの少しだけで良いから、わがままを、言わせて?(いまぐらい良いでしょう?神様、) 言いかけて、言葉を飲み込む。ごくり、という固唾を呑む音といっしょに ―― のどの、奥の奥へ。代わりの言葉は「やっぱり良い。はちみつミルクが飲みたいな」。 ガイは一瞬目を眇めたけれど(気づいたんだ、何かあるって。やっぱり、ガイはすごいね)「…分かった。待ってろよな」と言って静かに立ち上がった。 そうして、立ち去るガイの背中をただじっと、見送る。心なしか、その背中が寂しそうに見えた気がしたんだけど、たぶんそれは気のせいなんかじゃない。 ガイにそんな、寂しい思いをさせているのも事実なんだろうし、そんな思いをさせているのはわたしなんだろうから、何も言い返せない。 それからものの数分で二つ分のコップを両手に持ったガイが、足早に戻って来た。湯気が立っている ―― お手製の、はちみつミルク、だ。

「たまにいっしょに飲むくらい、良いだろ?」
「ガイ…うん、ありがとう。いただきます」
「ど−ぞど−ぞ。俺の手製だから味は保証出来ないけどな」

言って、わたしよりも先に一口すする。それを見たわたしは、嬉しさと同時になんだかおかしさまでこみ上げて来て、自然と笑みがこぼれた。 こんなふうにいっしょにすごしたり、笑いあったりするのって、なんだかすごく久しぶりだね。恋人同士なのに、へんだね。 そう言ったら、ガイもそれもそうだな、って言って笑みを浮かべた。それからガイは何を思ったのか「…公認、してもらおうか」なんてことを言い出した。 表情は、先ほどとは変わらず笑顔のままで、だけど声色がいまの言葉は冗談じゃないっていうことを証明している。だけど、良いのかな。

「みんなに認めてもらったらさ…ずっと、いっしょにいよう」
「ガイ…うん、うん…!」

ガイにそう言われると、不思議だ。いままでの不安が一瞬にして消えていく。このひとを、すきになれて良かったって、心からそう思える。 ありがとう、ありがとう。わたしをすきだって言ってくれて、ほんとうにありがとう。心の中で呟いて、はちみつミルクをすする。 ほんの少しの、はちみつの甘さがゆっくりと口内に広がっていく ―― うん、だいじょうぶ。あしたはきっと、元気になれるよ。

キャッスルロックの線路よ