そうして今日も歩いてゆけたら


セミが、忙しく鳴いている。季節はもう、すっかり夏だ。個人的にはあまり夏は好きにはなれない。 だからと言って特別嫌いなわけでもないが ―― 要するに、この暑さが苦手なのだ。暑ささえなければ。 暑さがあっての夏なのだから、それは無理なお願いというものなのかもしれないが、とにかくそれさえなければこの夏も好きになれるかもしれないのに。

「結局は暑いのが嫌なだけなんでしょう、は」
「な!ひ、ひとの心を読んだのですか…!エスパ−ですか、大佐は…!?」
「冗談言ってないで、溜まった書類を片付けたらどうです」
「大佐に涼しい顔して言われると…なんだかこう…」
「腹が立ちますか?」
「そ!そんなことは!ないかもしれません…」
、書類追加されたいですか?」

ジェイドの冷たいとも言える声色に、は謹んで遠慮させていただきます、と首を振りながら言った。 一瞬、ジェイドの眼鏡が光ったように見えたが、気のせいだと言うことにしておこう。

「それにしても暑いですね−。
 この暑さだけでもどうにかなってくれたらはかどる気がするんですけど」
「無理です」

ジェイドは手を休めることなくすっぱりとそう言った。こうまで言い切られると、逆に気持ちの良いものがある(それはもう、悲しいくらいに) それからしばらくは黙々と作業を続けていたふたりだったが、ものの数時間でその沈黙もたたれることになる ―― 言うまでもなく、によって。

「う〜ん、暑くてどうにかなりそうです…」
「飛び込んで来たらどうです?グランコクマは水上都市ですから…」
「水は腐るほどありますよって言いたいんでしょうけど、お断りします」
「おや、それは残念ですねぇ…ちょっとした暑さしのぎになると思ったんですが」
「どういう意味でですか、大佐…」
「深い意味はありませんよ、。それより終わりそうですか」

ジェイドに言われ、は少しばかり唸ってなんとか、とだけ答えた。それを聞いたジェイドはふむと頷くなり、何か思いついたような顔をした。

「早く済んだら、広場へ行きましょう。少しくらいなら涼めるでしょうし」
「大佐…!はい!」

ほんとうに嬉しそうな笑みを浮かべるを見つめ、彼女にも困ったものですねと呟いた。けれどもその言葉とは裏腹に、表情には穏やかとも言える微笑が浮かんでいた。

「ふ−、なんとか終わりました!」
「そうですか。出かけられますか?」
「はい、いつでも!」
「では行きましょうか。この時間なら人気も少ないでしょうし」

そう言うなりジェイドは立ち上がり、ひと足先に執務室を出て行った。もまた、簡単に片づけを終えると彼のあとを追い部屋を出た。 広場へつくと、ジェイドの予想通り人気は少なく、涼んでいるひとの姿はあまり見られなかった。夕暮れ時とあって、西日が少し肌を焼いたが、それほど気にならない。

「こうしているとあの時の忙しさが嘘のようですね」
「…ええ、ほんとうに」
「…良かったです」
「何が、ですか?」
「大佐が少し元気になったようで…わたしの気のせいかもしれませんけどね」

そう言っては微笑み、揺れる水面を眺めた。そんな彼女を見つめつつ、気づいていたのかと今更ながらに気づく。 普段なら気づきそうなことだが、それほどまでにあの旅での出来事は精神的に影響を与えていたということだろうか。

「いつから気づいていたんですか」
「確信したのはグランコクマに戻ったあとですがケテルブルクに行った時点で感づいていました」
「さすが、と言うべきでしょうね…やはりあなたは洞察力に優れているようだ」

ジェイドがそう言うと、は何処か嬉しそうにふんわりと微笑んだ。その笑みはまさに令嬢のそれで、軍服を着ている彼女と照らし合わせると何処か違和感を覚える。

「まだ、お悩みなんですね…無理もないかもしれませんが」
「悩んでいる、というのは少し違いますね…責任を感じている、というべきでしょうか」
「大佐…」
「わたしの愚かな行いの所為で…いまこの瞬間にも苦しんでいる仲間がいるんです」

ガイやル−クのことを言っているのだと、はすぐに気づいたがあえて聞き返すことはせず、ただ黙ってジェイドの横顔を見ていた。 次の言葉を捜してみたけれど、ぴんとくる言葉が思い当たらない。どの言葉も気休め程度にしかならない。彼の言っていることは事実なのだから、否定も出来なかった。は大きく深呼吸をするなり大声を上げて叫んだ。当然のように周囲の人々は振り返り、ジェイドもまた驚きの表情を隠そうともしなかった。

「どうしたんですか、突然…」
「わたし、自分が情けないです」
「情けない…?」
「言葉を返したいのに、見つからないんです…何も」
…あなたがそんな顔をする必要はないんですよ」
「けれど大佐、」
のその気持ちだけで十分です。言いたいことは分かっているつもりですから」
「たとえば、どんな…?」
「そうですね…あなたなら…大丈夫だと、そう言うのではないかと思っていましたが?」

思ってもみなかったことを指摘され驚いたのか、は一瞬だけ目を見開いたが、やがてあのすべてを包むかのような笑みを浮かべ、はい、と頷いた。 その笑みを見るたびに、思うんだ。こんなふうに酷く落ち込んだ日があったとしても、その笑みが傍らにある限り、きみが傍で頷いていてくれる限り。 また歩ける。まだ歩ける。そんなふうに思えるんだ。それがまた不思議だったりするのだけど、いまはただきみに「ありがとう」と言いたい。 そうして明日も歩けるように、一歩一歩、踏み締めてゆけるように。


070816