きょうは朝から雨が降り続いていた。だからきょうは合羽を羽織っての任務だったけれど、その甲斐もなくあちこちびしょぬれだった。 だから休憩の合間に着替えを済ませて、一課に戻ろうと階段を上っていたときのことだった。

「あれっ…?これって…ヴァイオリンの音…?」

ピタ、と足を止めて耳を済ませる。うん、間違いない。これはヴァイオリンの音色だ ―― そう思ったカイは、音のするほうへゆっくり歩き始めた。 上へ上へ上るにつれて、音はだんだん、だんだん大きく、近く聞こえるようになった。この先は確か、いまは空き部屋になっていて誰も使われていないはずだ。 かつては書類の一時的な保管庫になっていたようだけれど、ここ数年は使われていないんだと一課のひとに聞いたことがある。 そんなことはともかく、どうしてその誰もいないはずの部屋からヴァイオリンの音なんかが聞こえるのだろう。

「ひょっとして…怪談…?」

確かに薄暗く、気味悪いところもあるが、いまは真昼間だ。こんな白昼堂々怪談騒ぎなんてあるはずがない・と区切りをつけて、ドアノブに手をのばす。 念のため、コンコンとノックを二回して「あの…突然すみません。衛藤快です…失礼します」と言って扉を開ける。一瞬の閃光のあと、瞬時に視界が開けた。 そこには、穏やかに笑みを浮かべている一課の先輩とも呼ぶべき存在 ―― がたたずんでいた。「衛藤快くん」穏やかに自分の名前を呼んで、楽器を置く。

「なに、してたんですか?」
「雨が降ったから、ヴァイオリンを弾いていたんです。うるさかったですか?」
「え?いや、そんなことは…ないけど」
「そうですか、良かった」
「あの…聞いても良いですか?どうして、雨だとヴァイオリンを弾くんですか?」
「わたしに質問攻めとはなかなか度胸があって良いですね、衛藤快くん」

に、と口の端に浮かべるだけの笑みを見せ、じっと快の返事を待つ。すると快は案の定「ご、ごめんなさい!そんなつもりじゃ」と慌てたふうにそう言った。 「冗談ですよ。ほんとうにお優しいんですね、衛藤快くんは」はそう言って微笑み、ヴァイオリンを構えた。雨の音が、さっきよりも一層強くなったように思う。 そしてそれはきっと聞き間違いでも、錯覚などでもなかったのだろう。ヴァイオリンの音色が、少しずつ大きくなっていっていることに気づいた。このひとは、雨を嫌っている?

さんは…雨が嫌いなんですか?…ハル、みたいに」
「どうして、衛藤快くんがそんな顔をするんですか?春くんはそうかもしれませんが、
 わたしは雨の音を掻き消すためにこのヴァイオリンを弾いてるわけじゃないんです。分かりますか?」

言われて、少し考える仕草をする。やがて快はふるふる、と静かに首を振って、少しだけ申し訳なさそうな笑顔を見せた。だからは「そんな顔、しないでください。衛藤快くんには、笑顔がいちばんですよ」と言って、 ぴん、と一度ヴァイオリンの絃を弾いた。そして、やがてゆっくりと音色を奏でた ―― 雨だれのプレリュ−ド。昔、母親が特訓のために弾いていた旋律。もまた、最近ようやくこの曲をマスタ−したばかりだった。一通りの演奏を終えて、ふう、と深呼吸をする。「俺、音楽のことなんかぜんぜん分かんないけど…なんだか、少しだけ寂しい感じのする曲だね」快はそう言って、を見上げた。そうすると彼女はほんの少しだけ寂しそうに微笑んで、「さて、質問の答えがまだでしたね。そう…寂しくならないように、です」そう言った。

「寂しくならないように…?」
「はい。いえ…きっと、違いますね。悲しくならないように、かもしれません。
 まあ、どちらでも同じようなものですが…ただ単に、思い出さないようにしているだけです。あの日の、惨劇を」
「惨劇…。その日も、きょうみたいな雨だったんですか?」
「鈍いだけかと思ったのですが…案外鋭いところもあるようですね、衛藤快くん。
 ふふ、そんなところです。お聞きになりますか?わたしの身の上話を…興味があるのなら、おはなししますよ」

興味があるのなら。静かに告げられたその言霊は、けれども快の心臓を鋭くえぐったような気がした。は、そんなことをするようなひとではないことくらい、分かりきっている。 だけれど、には時々自分たちが想像出来ないようなひどいことをいまみたいな笑顔で言えてしまうことがある。もっとも、快がそれに気づいたのはごく最近のことであるけれども。 楽しんでいるのか、試しているつもりなのかは分からないが、よく知りもしない人間の記憶に踏み込む勇気を持ち合わせていない快は、また、首を振った。 ほんとうは、が話してくれると言うのなら、聞いてみたい気もするけれど、なぜだか聞く気にはなれなかった。それはさっき、罪悪感に似たものを感じたからなのかもしれなかった。

「ごめんなさい、お遊びがすぎましたね。ちょっとからかってみただけですよ、衛藤快くん」
「…へ、」
「それに、これはまだ春くんにもお話していないことなんです。知っているのは…そう、一課でも半数程度ですね」
「半数程度…」
「衛藤快くんになら、お話しても良いような気がするんです。どうしてでしょうね…絶対的な確信があるからなのでしょうか」

はそう言って微笑み、ヴァイオリンをバッグの中にしまいこんで、窓辺にもたれるようにして滴る水滴を、ただじっと眺めた。 「確信…て、オレは…」続けるべき言葉に悩み、快はしどろもどろになりながらもそう言って、地面に座り込んだ。立っているのも、さすがに限界だった。 任務を終えたばかりで、休憩もぜんぜんとってなくて。ほんとうにヘトヘトの状態で立ったままだったから、両足が悲鳴をあげるのも頷けた。 「わたしの母は…有名なヴァイオリニストであり、女優でもありました。それは、衛藤快くんもご存知ですよね?」は確かめるようにそう言って、ほんの少しだけ快を見やる。

「あ…うん。一課のみんなに聞いた…とてもきれいで優しいひとだった・って」
「…はい。ですけれど、彼女の道も、決して穏やかなものではなかったんです」
「彼女…って、さんのお母さん…」

確かめるように言われて、こく、と頷く。「わたしの母は…女優になって少し経ったころから…様子は豹変しました」はそう言って目を伏せ、その様子はまるで眠りながら語っているかのようだった。 「父親ともうまくいかなくなって、演技も失敗続きで…豹変したのが、ちょうどこのころからでした。あとになって知ったことだったんですが、母は…麻薬常習犯だったんです」一息にそう言い、深呼吸をする。 「さんのお母さんが、麻薬の常習犯…?」快は、疑念を持った。女優だったのなら、それなりに騒がれそうなのに ―― も同じことを思ったのだろう、ゆるゆると首を振って「有名になってままならなかったですし…父親との別居騒動も報じられていましたから。そしてその報道のほとぼりが冷めたころ…」が言葉を続けるまえに、思い出した。そして、事件は起きたんだ。

「数年前の雨の日…彼女は自害した…。当時の彼女はまともな精神状態じゃなかったって聞いています」
「思い出したようですね。母の自殺は、世間を騒がせるほどのニュ−スになりました…。
 当時学生だったわたしは、麻取になることを決めました」
さん…」
「母は…苦しかったんだと思います。どうしようもなく苦しくて、つらくて…わたしは…わたしが、母を殺したも同然です」
「そんなこと…!」
「わたしは母を弱虫だと非難しました。でも…違ったんです。戦っていたんですね…たった、ひとりで」

「…」快は、もう何も言えなくなってしまった。何か言いたいと言う気持ちは強くあるのに、言葉が出て来ない。は、娘として助力しなかった自分は母親を殺したも同然だと悲観的になっている。 そんなこと、ない。だって、だって ―― 「さんは、ずっと…お母さんのそばにいたじゃないですか」あふれ出しそうになった言葉が、とうとう決壊して発声をもたらした。 言ってしまってから、快は「あっ、」と我に返った。ちらり、とを見てみれば、やはり彼女は目を見開いて「衛藤…快くん…?」と名前を呼んでいる。快はああもう、と半ば躍起になって、を見た。

「普通だったら、そんな親とっくに見捨てちゃってるかもしれないのに、さんはずっとそばにいたんでしょ?」
「はい…(それは、わたしも母親に触発された一時的な麻薬常習者だったから、で)」
「だったら、十分強いです!なにより、お母さんの…」
「もう…良いです。ありがとう、衛藤快くん…おかげで少し、雨も止んだ気がします。さあ、一課に戻りましょう」

窓辺から背を引き剥がし、ちらりと空を仰いで微笑む。その表情には、もう先ほどのような憂いは感じられず、快もほっと安堵した。 窓の外をのぞいてみると ―― なるほど、確かに雨は小降りになってきている。雲が切れたからか、それとも。快はを待たせていることに気づき、ぶんぶんと首を振った。 このひとの心に雨を降らせるような人間にはなりたくない。このひとには、ずっとずっと、あのきれいな笑顔を浮かべていて欲しいから ―― オーロラのようなあの微笑を、いつまでもその頬に。

オーロラヴィジョン