「 うおおおおおおおおおおおおお?! 」 ―――― ドンガラガッシャン。その日、久しくカ−クランド邸には騒音が響き渡った。 一人暮らしであるはずなのに、妙な話である。それもそのはず、これまで一度も女性と一夜――――否、女性と寝泊りなどしたことがなかったア−サ−にとって、それは実に摩訶不思議な光景であった。だって、ありえない。結婚しているとかならまだしも、自分はいまだ未婚だ。それなのに、それなのに。こんなことがあり得るだろうか。朝、目が覚めたら――――整った顔立ちの可憐な少女が、隣で寝息を立てているなどと。そんな衝撃的な出会いから、早一週間。 「 朝ごはん出来たよ? 」 「 …………おう、おはようさん 」 「 うん、おはよう。良い天気だねぇ 」 そう言ってにこやかに穏やかに話をする女性――――名前をと言った。。名前からして、日本人のようだ。それならば話は早いと、朝食がすむなりア−サ−はダイヤルを回した。は、手馴れた様子でキッチンに立ち、片付けなどをしている。何度目かのコ−ルのあと、寝起きらしい菊の声が耳に届いた。「あ−すまない。そういえばそっちはまだ夜中だったな」「ふわ…………だいじょうぶですよ。すこし前まで書類整理をしていましたから…………どうしました?」「それ、あんまりだいじょうぶじゃないだろう…………寝ろ、と言いたいところだが、こちらも立て込んでいる。手短に話す」「…………はい?」意味が良くわからないと言った様子で、菊が首をかしげている面持ちが脳裏に浮かんで、笑みがこぼれる。数分後、菊の悲鳴にも似た絶叫が受話器を震撼させたのは、言うまでもなかった。それからさらに、一週間後――――忙しいだろうに、菊がはるばる日本から足を運んでくれた。面目ない。相変わらずキッチンでは、客人をもてなすためにが紅茶を振舞っている。黒髪に黒目、華奢な身体。どこからどうみても菊の国のそれと同等だ。それでも、彼女はそのどれとも違う、と寂しそうに首を振るのだ。 「 ――――なあ、信じられるか? 」 「 ええ、ア−サ−さんが寝込みの女性を襲ったということは信じます 」 「 あのなあ−!こっちはホントに困ってるんだが 」 「 ふふっ、ジャパニ−ズジョ−クですよ。ア−サ−さんもだいぶお疲れのようですね 」 「 あんまり笑えないぞ…………下手したらフランシスなんかは間に受けるだろうからな………… 」 「 ご愁傷様です 」 「 ――――どうぞ 」 「 あ――――ありがとうございます、さん。良かったらごいっしょしませんか 」 ふわり、菊が笑う。つられるように、「ありがとうございます」とも笑う。思わず綺麗だ、なんて思ってしまった。「ふむ…………確かに、あなたはわたしの国の人間のようですが、”違う”んですね」神妙な面持ちで菊が尋ねればもまたしっかりと――――けれどすこし寂しそうに頷いた。なんだか、胸の奥がちくりと傷んだ。そんな顔をさせてしまっているのは自分なんじゃないかと、変な罪悪感さえ抱いてしまうほどに。「ア−サ−さんはほんとうにお優しいんですね。でも、誰のせいでもありませんよ」菊の笑顔が優しくて、思わずじんわり胸の奥が震えた。それは、にとってもおなじことだったようだ。「仮にあなたが違う次元の方だったとして、アクションがない限りどうしようもないでしょう?ア−サ−さんさえご迷惑でなければ、しばらくいっしょに生活してみてはどうです?」菊は、あえて自分が引き取るとは言わなかった。忙しいのはお互い様だ。ならば、どちらが選んでもおなじこと。決めるのは、自身だ。 「わたし、このままア−サ−さんといっしょにいたいです」「え」「ほんとうに良いんですか?わたしの国の方がなじみやすいのでは」菊の意見は、最もだった。別段迷惑ではないが、みるからに彼女は未成年。そんなデリケ−トな女性を見知らぬ男性とひとつ屋根の下など――――菊やア−サ−の意図が見て取れたのか、は笑みを浮かべて言った。 「 確かに馴染みはありますが、かく乱してしまいそうで…………それに 」 「 それに? 」 「 きっと、懐かしくなってしまいます。ほんとうの家族のこと、親友のことを思い出したら 」 「 ―――― 」 「 さん…………まあ、それもそうですね…………でも、無理してませんか 」 「 さみしいのには慣れています。だいじょうぶ、菊さんとおなじなんだって………… この世界でも、ひとりきりじゃないんだって思えましたから。あの…………お願いがあるんです 」 「 はい? 」 「 時々、遊びに来てくれませんか?あっすみません、ここはまだわたしの家でもないのに 」 あはは。すこし困ったように。けれども気丈に笑みを浮かべるをみていられなくなって、気づいたら自然と身体が動いていた。「気が済むまで、ここにいたらいい」「あの、」「だから、そんな顔をするな」「ア−サ−さん、」「どうやらわたしはお邪魔のようですね」「は?」「せっかくです、この機会に身を落ち着けてはどうですか」菊の顔は、妹か娘を恋人に盗まれたかのようなしかめっ面だ。いまにも喧嘩腰で帰国してしまいそうな菊を半ば強引に引き止めて、その夜は三人ですごした。は熱心に菊の国の話を聞いていて、ア−サ−はなんだか煮え切らない気持ちで書類整理などをして、それぞれ夜を明かした。翌朝早く、菊は「また困ったことがあったらなんでも言ってください」といつもの笑顔で帰国の途についた。毎度ながら、菊の冷静さには頭が上がらない。 「 素敵なひとですね−菊さんって 」 「 ああ。ずっと昔からああだ。自分が大変なときも、ひとのことばっかで 」 「 ふふ。様子が浮かびます。あの…………ア−サ−さん? 」 「 ん、なんだ 」 「 わたし、一生懸命お手伝いします。お給料なんかもいらないです。だから 」 「 わかっている。もうなにも言うな。オレも、気が済んだ。もうなにも聞かない 」 「 ア−サ−さんは、菊さんが言っていたとおり、ほんとうにお優しい方ですね 」 「 ――――そんなんじゃない。将来、自分が嫌な思いをしたくないだけだ 」 「 それでもいいです。ありがとうございます 」 が、ふわりと微笑んだ。真っ白なエプロンが風になびいて、思わずまた見入ってしまった。そのたびに、のことをもっと知りたいだなんて思ってしまう。だけど、わかっている。これ以上はダメだと。この先は、踏み込んではいけない未知の境界なのだと脳裏が告げる。だけども、があまりにも綺麗に――――それでいてひどく悲しそうに微笑むから、いまはただ、そのちいさな手のひらを握り締めることしか出来なかった。 青の波紋 |