作りすぎてしまったからお裾分けを、とは手に料理を持ってスペインの家への道を歩いていた。今日作ったのは和菓子だが、以前スペインとロマーノがおいしいと褒めてくれたのを思い出したので、少し遠い道のりだがこうして歩いているのだった。太陽が高い所から彼女を見下ろしているので、の頬はうっすらと桃色に染まっていた。あと少しで目的のスペイン宅に着く。着いたら、お水を一杯いただこう。がぼんやりと考えた時だった。一本道の向こう側から、当の本人が歩いてきているのが見えた。驚きで思わず足を止めると、スペイン本人もまた、彼女を発見したようで、大きく手を振り駆け出した。



やん!どおした?」
「お裾分けを、と思って…」



スペインはの目の前に立つといつもの笑みを向けた。その彼に手に持っていた重箱をそっと差し出すと、一瞬嬉しそうな表情を浮かべたのだが、すぐに申し訳なさそうに眉尻を下げた。



「めっちゃ嬉しいんやけど…ごめんなあ。今からちょお、フランスのとこに行かなあかんのよ」
「あ、お気になさらず。家に届けておきますよ?」
「ほんま?ありがたいわー。お茶とか、好きに飲んでええからね」
「わかりました」
「あ、それと、」



わざとらしく言葉を切ったスペインは笑顔を変化させた。にやり、と形容できるその笑顔の意味を図りかねなかったがことりと首を傾げる。同時に彼女に向けられる台詞。



「寝せといたって?」



誰を?が簡単な疑問を口にする前に、スペインは脱兎の如く駆け出してしまい、彼女の目の前から姿を消した。言い逃げとはこのことか。あっという間に遠くへ行ってしまった彼を、はだらしなく口を開けて見やるしかなかった。



「留守番よろしくー」



ここで立っていても埒があかない。しょうがなく再び歩き出したの背中にそんな声がかかった。振り返るも、スペインはかろうじて点に見えるだけだった。





      ♪      ♪      ♪   





「…おじゃまします」



家主のいない家は妙に静かだった。広いその家がそれでも不気味に思えないのは、家主の人柄と、あたたかな日差しが窓という窓から万遍なく差し込んでいるからだとは思った。これが梅雨時のじめじめした日だったらこうはいかない。何度か歩いたことのある家の中を、記憶を頼りにリビングまで進んだは、キッチンに置かれたテーブルに荷物を載せ、一息ついた。丁度日の当たらない場所にテーブルはあったので、中身が悪くなることはないだろう。冷蔵庫にいれると堅くなってしまうし、多分、彼もすぐに帰ってくるだろう。そういう予想からの行動だった。水を貰ってもいいだろうかと、渇いた喉が訴える痛みから視線をさまよわせると、ふと、キッチンの隣の部屋が目に付いた。別段真新しいものはない。だが、人の気配がした気がしたのだ。そういえば。先程スペインは意味の分からないことを言っていたな、ということをは思い出した。寝かせておいてほしい、という言葉は、誰かが寝ているということと等しい。普通に考えればこの家で眠っていて不思議でないのはロマーノである。は彼の、にとっては珍しい寝顔を見たいという欲望に駆られ、音を立
てないように気をつけながらキッチンを離れた。窓際には大きなソファがある。神経を研ぎ澄ますと、誰かがそこにいるのがわかった。ロマーノの天使のような寝顔を想像して口元を緩めたは、ソファの前へと移動した。



「……っ、!」



思わず漏らしそうになった声を慌てて飲み込む。喉がからからに渇いていて本当によかった。潤っていたら叫んでいたかもしれない。しかしきつく結んだ唇からは、息を呑む音が僅かにもれた。が目にしたのは、彼女が予想していたロマーノの寝顔ではなかった。いや、確かにその人間は眠っているのだが。彼女が見つけたのは、本来ならスペインの家にいるはずのない、イギリスであった。スペインの留守中に、彼の家のソファに身を横たえてすやすやと寝息を立てるイギリスの姿を、いったい誰が想像できようか。はうるさく鳴り続ける心臓を服の上から押さえつけ、どうしたらいいのか思案した。スペインには留守番をしてほしいと頼まれたが、イギリスがいるなんてことはもちろん聞いていない。知っていたらあそこで引き返していただろう。だが今のこの状況は紛れもない現実で、は頭を痛めるしかなかった。



「……ん、」



小さく呻いたイギリスが身を捩って、狭いソファの上で器用に寝返りをうった。太陽光が眩しいのだろう。眉を寄せたので、はそっと、彼の顔に自分の影があたるように体をずらした。それだけでイギリスは表情を穏やかにして再び寝息をたて始める。子供のようなイギリスの姿に、は口元を緩め、ゆっくりと膝をついた。影がイギリスを覆うのを確認しながら。





がイギリスへの想いに気づいたのは最近だった。胸の中にいたのだ。占領していたのだ。彼が。しかしイギリスはを嫌っている風な態度をとることが多かったので、は心を痛めるしかなかった。自分は嫌われている、だからこの気持ちは隠さねば、と。しかしは、イギリスがとてもやさしい人間であるのを知っていた。ふいにみせるやさしさに惹かれ、想いは募り、いつも自分だけにやさしさをみせてほしいと願ってしまった。願いはするが、身分不相応の意識もあったので、無意識のうちに避けてしまうといった行動をとってしまうのも悩みだった。想いは募る。だが叶わないと諦める。諦められずまた苦しむ。無限ループのようにぐるぐると回るの行動のせいで、ずっとイギリスとの関係は平行線を辿るばかりだ。



「(目、が…)」



は、イギリスの目にかかった前髪をそっと横へ流した。さらさらと手触りの良い髪は、流れてもすぐに元の場所へと戻ってしまい意味がない。絹糸のような滑らかさ。異国の人間であることを示す色。太陽光に照らされたそれは自ら発光しているかのように煌びやかだ。瞼の下にも、同じように異国さを顕す色があるのだが、今は見ることができない。はもう一度絹糸の束を梳いた。イギリスの顔全体を眺めることが出来る日がくるなんて思ってもみなかった。整った目鼻立ちも、凛々しい眉も、全部がどこかいとしいのだから不思議だ。普段は不機嫌さを伝えてくる眉間の皺も今はどこにもない。ただしあわせそうに、子供のように眠るイギリスはひどく無防備だ。は初めて見るイギリスの表情に戸惑い、速まる鼓動を抑えられずにいた。目が閉じられていて本当によかったと安堵する。



「(合う、と、)」



もう一度、もう一度だけ、と手を伸ばす。そ、と皮膚が触れた瞬間に広がる熱と甘い痺れに涙がこぼれそうな感覚に溺れた。
目が合うと、何も、言えなくなる。動けなくなる。魅入られたように、体が硬直し、固まる。それが彼を苛立たせているのだと分かっているのに。理解しているのに。イギリスを前にすると、の体は意識の管轄から外れてしまうのだ。そしてそれ以上に恐怖なのが、呆れたのか怒りを耐えるためなのか、逸らされるイギリスの視線なのだが。
触れ合える程に近くにいる今が夢のようだ。



「(いま、だけは…起きないでいてください、イギリスさん…)」



もう少しだけ、あなたの傍にいることを実感していたいから、。






目が合うと、どうしていいのかわからない








「イギリスー?いい加減起きんとあかんでー」



浮上する意識。重たい瞼を押し上げて、見慣れない天井を見受けた後、今自分がスペインの家のソファで眠っていたのだと思い出した。キッチンでスペインが何事か、騒いでいるが、耳に入らない。それにしても、。



「おい、スペイン」
「んー?」
「今、ここに……いや、なんでもない」



ここに、あいつがいたか?なんて訳のわからない質問を飲み込む。夢と現実を一緒にするなんてナンセンスだ。
見慣れない菓子を頬張るスペインを横目に、夢で彼女が触れた瞼に触れてみた。じんわりと熱を持っている気がする。あたたかい、熱。