晩夏をすぎたとはいえ落ち着く気配のない暑さに、愚痴をこぼす元気もなくなっていた、ある日のことだ。放課後 ――――― 人気のない屋上で、部活がはじまるまでの時間を持て余していたは、不意に屋上の扉の開く音がして思わず飛び起きた。なんだろう、と気になってそうっと顔を覗き込む。がいたのはちょうど、扉がある屋根の上だったのだ。西日の逆光で良くは見えなかったが、あのシルエットには見覚えがあった。 「 ―――― やま、もと、くん? 」 「 だれだっ? 」 空気を震わせる声に、思わずビクッと肩を震わせた。シルエットの正体は、野球部のエ−スで同級生の、山本武だった。彼は確か、この夏の大会で怪我をしたと人づてに聞いた。確かに彼の腕には痛々しいほど包帯がぐるぐる巻きにされていたし、表情にもどこかいつもの笑みはなかった。それもその筈だ ――――― 腕が使い物にならなくなる、と言うことは、二度と野球が出来ないと言っているのとおなじことだからだ。野球を棄てて生きろと、暗に言われているのとおなじことだからだ。どうやら、胸の奥に走った悪寒は嘘ではなかったらしい。は咄嗟に、彼の腕をつかんだ。 「 ――――― 離せ、 」 「 ―――― 嫌 」 「 離せって、言ってる、だろっ 」 「 嫌ったら、嫌 」 「 なん、でだよ…離せよ! 」 ドゴッ!嫌な、音がした。鈍い音、鈍い感触。山本が我に返って地面に目を落とすと、うずくまっている少女の姿があった。初対面の人間を ――――― それも、女の子を殴ってしまった。元気なほうのこぶしをみつめて、そのこぶしを勢いそのままに地面に殴りつけた。固く冷たい、コンクリ−ト製の床はびくりともせずに、そこにたたずんでいた。「…っくそっなんて…なんて馬鹿なんだっ俺は…!」「山本…くん…?」「ごめん…ほんとごめんな。学校、来れない顔にしちまって」「ううん、こんなの平気。あたしの傷はすぐに治るけど…山本君には、二度も痛い思いをさせちゃったから…あたしが悪いの。ごめんね?」そう言って立ち上がった少女は悲しそうに笑って、首を振った。 「 全部分かってるって口ぶりだな。お前、名前は? 」 「 え?あたし…あたしの名前は…。部活までここで休ませてもらおうと思って…なに? 」 「 いや、変わったヤツだなと思って。女子なら普通暑がって図書室とかどっかそのへんでヒマをつぶすだろ 」 「 ああ…まあね。あたしは根っからアウトドア派だから…ってそうじゃなくて! いつからあたしの話になったの!いま大事なのはあたしのことなんかじゃなくて…! 」 クスクス。怒り心頭なのまえに、あんなにもみたいと思っていた山本の笑顔があった。嬉しい気持ちは確かに強いのに、なんだか腑に落ちない。「なにがおかしいの?」「ん?面白いヤツだなあって。なんか…いろいろ馬鹿らしくなった。ほんのちょっと怪我したくらいで人生全部をダメにしようとしていた俺も、意地になってた俺も」手を差しのべられて、立てよという意味なんだと分かったは迷うことなくその手を握り返した。 「 ――――― なあ、 」 「 ん、なに? 」 「 どうしてさっき、離してくんなかったんだ? 」 「 だって離したら、もう二度と山本君に会えなくなっちゃうような気がして。 全身が叫んでたの…嫌だ、ダメだって…行かないでって。ごめんね…結局自分の我がままでしかないの…きっと 」 「 …んなことね−よ!俺はその”我がまま”に救われたんだ。なによりも大事な…命ってヤツをな 」 「 山本君…良かった…。それじゃあ、あたしもう行くね。部活始まっちゃってるみたいだし 」 もう大丈夫みたいだ、と安堵して、屋上から立ち去ろうとした瞬間 ―――― 全身が熱を帯びていることに気がついた。このまま放っておいたら、熱中症にでもなんでもかかってしまいそうだと勘違いしてしまうほどに。だけど、違った。この暑さは、夏の所為なんかじゃない。全身が、心が、叫んでいる証。すきだって。あのひとのことがすきだったから、死なせたくなかったんだって。どちらにしても自分の我がままでしかないのは分かっている。だから、せめて。「な、に?」「――――すきだ」「命の恩人だから?それはすきとは違うよ、憧れとか…そういう気持ちだよ」「ちがう。ずっと、言おうって思ってたんだ。言わなきゃって…いつも、誰かがそばにいてくれているような気がしていた。つらい練習のときも、がんばれって応援してくれているような気がした」自分とおなじくらい熱を帯びた吐息が耳に触れて、くすぐったい。 「 気のせいなんじゃないかな。それがあたしだって言いたいの? 」 「 は…ちがうって言うのか?こんなに心臓がうるさいのに、はちがうのか? 」 「 それは…っちがわ、ないけど…でも、それとこれとはちがうじゃない…? 」 「 違わない。はなにをそんなに怖がってんだ?やっぱり俺は、死んだほうが、 」 「 そんな…そんなわけない…!死んで良い人間なんていない…!なにより山本君だから…! 」 「 俺だから…? 」 「死んでほしく、なかった。全力で…止めたの…」「だったら…」「でも!怖いの…どこかで有頂天になっている自分がいて…あたしは…山本君が思っているほど、心の綺麗な人間じゃない」「俺だってそうだよ」「えっ…」「すこしまえまで本気で死のうって思ってたくせに、ちょっと止めてくれる人間がいたら安心しちまってる。最低だよな」「ちがう。ちがう!そう言うことじゃない!あたしは…っん…はっ」落ち着きなく乱れる呼吸。酸素がなくなりそうだとほんとうに心配になりだしたころ、山本はようやくを自由にした。 「 はぁ…はぁっ。なに、するのっ!変態っ…! 」 「 俺は健全な男子中学生だからな 」 「 それ健全って言わない…っ!最低… 」 「 ああ、最低だな。だからさ、お互い様ってことで、んなに卑下するなよ。 死に損ないの人間に言われてもなんの説得力もないかもしんね−けどさ!生きるって決めた、俺へのご褒美だと思ってさ 」 「 なんか…丸く収められたような気しかしない… 」 「 んなことね−って!だって俺、まだの気持ち聴いてね−もん 」 だろ?と満面の笑顔で言われて、は思わずふくれっ面になった。ずるい。ほんとうはそんなこと言わなくったって、分かっているくせに。だけど、言わないままでいてもどこか負けた気しかしないから、西日に向かって大きな声で叫んだ。「あたしは!山本武君のことが!だいすきです!」「おおっ言えんじゃん」「やっぱり負けた気しかしない…」「そう不貞腐れるなって!もうを置いて、どこにも行けなくなっちまったんだからな」「ずるい」「たけし」「へ?」「たけしって言ってみ?」「なんで」「恋人同士になったのに、俺まだ名前で呼んでもらってない」「あたしだって」「気が向いたらな」「あたしも。気が向いたらね」「だってずり−じゃん」また、誰もいない屋上にふたり分の笑い声が木霊した。夏空はもう、曇ることを知らない。 輝くほどに痛みが増す、ただの宝箱には収まらない奇跡を誰が信じよう |