「あれ」もう誰もいない筈の寂れたグラウンドに、いまはもうすっかり見慣れた背中をみつけて、マネジ業と着替えを終えたは、鞄を手に取りその背中に声をかけた。「山本君?帰らないの?」「ああ、か…もうちょっとだけ、な」「雨、降りそうだよ?」「ああ、だから、もうちょっとだけ」「ふうん?そっか」はそう言って、山本と同じようにどんよりとした曇り空を見上げ、大きく背伸びをした。「こそ、帰らないのか?傘持ってないんだろ」「ん−そうなんだけどね。たまにはこんなふうに雨を待ってみるのも良いかなあって」だって、いつも気付いたころには降っているんだから ―――――― こっそり呟いたの言葉を、山本は聞き逃さなかった。 「 ――――― あ! 」 「 ん、どうした? 」 「 いま来た!ポツって!ほらまたっ 」 「 はは、んなに騒ぐことでもね−だろ…つめてっ 」 「 ふふふ。山本君のところにも落ちた−!ね、雨でしょ 」 「 ―――― 雨、だな 」 「 山本君?ほんとうにどうしたの?きょう、なんだか元気ないね 」 部室来たときも思ったけど。は、油断したら聴き逃してしまいそうなくらいとてもちいさな声でそう言って、山本の顔を覗き込むようにして山本の様子をうかがった。見慣れた顔立ち。心を奮い立たせる、凛と響くような、それでいてどこか懐かしくも優しいソプラノの声色。視線を奪う、清らかな仕草。「ハハッ、や−っぱ、マネジには誤魔化せねぇのかなあ」「言ってみて?何か力になれるかもしれないし」「そうだな、ずっといっしょに野球やって来たには話しても良いかなあ」ポツ、ポツ。すこしずつ強さを増していく雨のように、山本はすこしずつ重たい口を開いて、胸の内に抱えている”何か”を打ち明けてくれた。 「 はさ…野球、すきか? 」 「 なにいまさら。すきじゃなかったらこんなとこにはいないよ!だいすきだよ 」 「 ハハッ、だよな。じゃあさ、いますぐマネジやめろって言われたら、どうする? 」 「 え…、山本君、言われたの?野球やめなさいって? 」 「 まあ、そんな感じかな。単刀直入には言われなかったけど、そんな感じのニュアンスだった。 ああ、勘違いすんなよ?監督に言われたんじゃね−んだ。ちょっと、大事なことがあって…な 」 「 大事なこと…そのために、野球を棄てられるかって? 」 「 やっぱりには分かるのな−、ビンゴだぜ 」 ピン、と額に人差し指を弾かれて、はにかむ山本と目が合った。「いった−っデコピンすることないじゃないっ」「悪い悪い、なんかこう…ノリでな」「落ち込んでいるのかと思えば…ね、話なら部室でしない?雨ひどくなった、し…?」「こうしていれば、濡れないだろ」「ちょ…山本君?そりゃ…わ、わたしは濡れないだろうけど…」「嫌だったか?」「…山本君、ずるい」「ん?」わたしがノ−って言えないこと、知ってて ――――― は胸中でそう呟き、それでも山本に付き合うことにした。どうしてって、山本がいま苦悩の中にいることをいまやっと知ったから。ほんとうにやっと、気付いたから。 「 雨は、嫌だな ――――― こんなこと言ったら、小僧に怒られそうだな 」 「 …え?どうしたのいきなり?小僧? 」 「 いつも俺を試すんだ…いつだって。それになにより、まっすぐ部活に行けなくなっちまうし 」 「 試す…って?山本君の、なにを?まあ、練習に行けないのは仕方ないね 」 くすくすと、が笑った。それだけで心はこんなにも温かく ――――― ああ胸の奥で花が揺れているようだ、と山本は細めていた瞳をさらに眇めた。雨に打たれても、強風にあおられても、決して枯れることのない花。なにものにも染まることのない花。「ハハッ」「な、なに?」「ごめんな、には分からないことだらけだよな」「ほんとうだよ!さっきから聴き返しているのに教えてくれないし…っくしゅんっ」「おい、大丈夫か?」「だいじょ−ぶ!そんな顔しなくても、あたしは風邪なんて引かないよ。それよりエ−スが風邪なんて引いたら大変!部室行こうっ」「その意見には、賛成出来ないのな」「ええ?どうして?」「あんな狭い空間にとふたりきりでいたら、俺どうなるかわかんね−し」聞こえないように、そうっと呟く。案の定、は「え、なんて?」と首をかしげている。 「 とにかくだめなのな。それに、いっしょに雨に打たれていたいって言ったのはだぞ? 」 「 う−ん。じゃあせめて傘さそう!はいっ折り畳みあるからっ 」 「 なんだ、持ってたのか− 」 「 え?これあたしのじゃないよ? 」 「 え、じゃあどこから…あのなあ、ひとのエナメルバッグ漁るやつがあるか? 」 「 えへへ−良いじゃん!気にしない気にしない。風邪引くよりぜんぜん良いよ 」 「その笑顔は反則なのな…」「え?」の手から半ば傘を奪うようにして持ち上げ、空いているほうの手でを抱き寄せる。「ちょ、また?」「やっぱだめだ、俺」「え?」「野球とを切り離すなんて、出来ね−よ」「ちょ、どういう…」こと、と言いかけたの唇を、半ば強引に奪う。そう、すこし前にちょうどの持っていた傘をそうしてみせたように。奪えるものなら、このまますべてを奪ってしまいたい。の瞳に映るもの、の中にあるもの、すべてを。だけども不意に、親友の笑顔が脳裏に浮かんで、ようやく彼女を自由にした。「は…っやま、もとく…っ」「悪い、なんだ?」「あのねっ…あた、あたしが山本君のことすきじゃなかったら…どうするつもりだったの!」「ハハッ。な−んだ、嬉しかったのな−は」「ち、ちが…!あたしは怒ってるんだよ!折角相談乗ってあげようと思ってたのに…!なんかもう、どうでも良くなった…っ」はそう言って、耳まで真っ赤になった顔を隠そうと俯く。ほんとうに、は可愛いんだなあ。そんなふうに思いながら、を宥めるように頭を撫でる。 「 決めた。俺、悩むのはもう止めにする。そんなの、俺らしくないもんな 」 「 山本君… 」 「 は手放せね−し、野球も手放せね−。かと言って大事な友達を見捨てることも出来ね−、なら答えはひとつだ 」 「 大事な友達…って、(沢田君の…こと、) 」 「 全部護り抜いてやる。それが俺の覚悟だ 」 「 なんか良くわかんないけど…格好良いね、そういうのって 」 「 サンキュな、のおかげですっきりした! 」 「 そう?良かった。でも山本君?あたしはぜんぜん、すっきりしないよ? 」 「 ――――― え 」 「 質問の答えは帰ってこないし、あたしばっかり良いようにされてるし。自惚れたくもなるよそりゃあ 」 「??良く分かんね−けど、ごめん」「ごめんじゃないよ。これは、責任とってもらわないとね!」「ハハッ、安心しろよ」「え?」「とは、墓場までいっしょだ」「ちょ…!っん、」呼吸が奪われる。額に落ちる雫はふたりを濡らすことなく、西の空には晴れ間がのぞいることに、ふたりは気付く筈もなかった。 やさしいやさしい雨が降る午後 |