時計を見つめ、たけしが「行って来る」と言って家を出たときのことを思い出してみる。不安になると、いつもそんなふうにしてすごした。付き合いだしてたけしの秘密を知ったときから、もうずっとそんなふうにしている。そうでもしなければ安心出来ないなんて、なんともか弱い恋人だと周囲の人間に笑われてしまいそうだ。それでも良いと自分自身は思っている。それが事実なのだから、否定しようがないのだ。もっとも京子ちゃんたちに言わせれば「そんなの、当然だよ。わたしたちだってそんなふうに思うことあるもん」とのことらしいが、気が気じゃないのもまたほんとうのところだ。ええと、話を戻そう。たけしがこの家を出て行ったのはいまからちょうど12時間以上もまえのことだ。普通に。世間一般的に、主婦持ちの旦那さんが仕事に出る時間に、たけしは「行って来る」って言って、出かけるときの習慣とも言える抱擁を交わして、出て行った。たけしがこんな時間(そう言えば明記していなかったけれども、現時刻はちょうど午前12時を回ったところだ)まで帰ってこないなんて、普通のひとなら浮気と言う二文字を思い浮かべるだろう。 「 でもねえ…野球馬鹿のたけしに限ってそれはあり得ないんだよ、うん 」 頬杖をついて、ぱたっとうつぶせになる。たけしはなんにでも直球勝負だから、好きになった子に対しても直球勝負だ。ついこの間だって、付き合い始めたころとなんら変わらない様子で「いっしょに住まないか!」て、顔を真っ赤にして言ってくれた。それはつまり、同棲のお誘いだ。告白はわたしからだったけれども、そのあと自分も好きだったって、ちゃんと、たけしも告白してくれた。そうして付き合い始めて二年がすぎたころ、たけしの秘密を教えられた。自分はマフィアの一味なんだ、って。あのときのたけしの顔や声色、いまでもハッキリと覚えている。緊張した面持ち、震える声、あり得ないって否定されるって思ってた、てたけしが秘密を打ち明けたあと言っていたとおり、その気持ちは少なからず自分の中にあった。だけどたけしと離れることのほうが断然あり得なかったから、わたしは「分かった、ありがとうたけし」とだけ言ってたけしを抱きしめた。それからまた月日は流れて、同棲することになったのだけど、正直いまも不安は拭えない。任務中のことを考えると、それこそ気が気じゃない。ボロボロになって帰って来たときなんて、ほんとうに驚いた。しばらく身を潜めてろ、なんて言われたこともあった。 「 たけし…ううん、だいじょうぶ!たけしだもんっ 」 近くにひとがいたらどんな理屈だよ、なんてツッコまれそうだけれども、そうでも言って声を張り上げなくちゃ、不安で不安で、どうにかなりそうだった。たけしがいない、それだけなのにこんなに不安になるなんて、付き合うようになったばかりのころは夢にも思ってなかった。それから30分ほどがすぎて、きょうはもう眠ってしまおうかとあきらめかけていたころ、ガチャッと玄関の扉が開く音がして、あたしはガバッと起き上がった。たけしだ! 「 たけし、たけし!おかえりっ…獄寺、くん? 」 「 はは、んな顔すんなって!ほら野球バカ、ちゃんと詫び入れろよ!、泣きそうな顔してんじゃんか 」 「 ああ…悪いな、獄寺 」 「 ほんじゃ、俺は邪魔になんね−ように帰るわ。も、ほどほどに頼むぜ 」 「 ?うん…ありがとう獄寺くん。泊って行けば良いのに… 」 「 馬鹿言え、笹川や三浦ならともかく、俺が泊ってったら生きて帰れね−だろ−が。じゃあな 」 獄寺君はそう言って、開いていた携帯電話のディスプレイを閉じて、ひらひらと肩手を振った。やっぱり、獄寺君は獄寺君のままだ。その直後、ふらふらになって倒れてきたたけしの顔が、肩越しにうずくまる。「あ−疲れた…ただいま、」「お、おかえり…だ、だいじょうぶ?」「ああ、なんとかな…けど今回のはちっと堪えたかな…」「あ…あのあの!部屋で休んだほうが、」「もう少し…だめか?」気だるそうに顔をあげたたけしを見ていると、ダメ、なんて言えるわけがない。「ダメじゃ、ないけど…」「ココが、落ち着くんだよ」そう言ってたけしはに、と笑ったけれど、その笑顔に覇気はなかった。それだけで、今回の任務の疲労度は十分に伝わって来た。だからわたしは何も言わずに、寄りかかるたけしの身体をそっと抱きしめた。秘密を打ち明けてくれた、あのときと同じように。 「 やっぱ、落ち着くな−こうしてると、あのときを思い出すんだ 」 「 あのときって?秘密を教えてくれたとき? 」 「 おっ、覚えてたのか 」 「 当り前だよ、たけしが伝えてくれたこと、ひとつも忘れてないよ 」 「 …わり、オレなんかもう限界みたいだ… 」 「 え…え?た、たけし? 」 ふとたけしのうずくまっていた右肩が重たい気がして、あたしははっとした。たけしが、泣いている。いままで一度も誰にも、泣き顔なんて見せたことはなかったくせに、いまはじめて人前で泣いている。きっと誰も見たことのない、たけしの表情をあたしは知っている。そう、たけしは何事にもまっすぐだから、弱気になるところなんて見せられないんだって、付き合う前から知っていた。「泣いていいよ、たけし。ずっとこうしてるから…ね」ぽんぽんと、たけしの背中をたたく。何があったかなんて、いまは気にならなかった。たけしが泣いている、そのことのほうが衝撃が大きかった。「サンキュ、…やっぱ、おまえで良かった」たけしはかすれる声でそう言って、ただ声を押し殺して泣いていた。いまのあたしに出来ることは、きっとこれくらいだろうから。たけしが落ち着いたら、「泣き顔も格好良かったよ」って言ってやろう。きっと、その台詞を言う前にたけしは眠っちゃうだろうけれど。そのあとはずっと、寝顔を見ながらすごそうかななんて考えながら、あたしは更けていく夜に眼をすがめた。 揺らぐ景色は君の肩越し |