「ただいま」いつものように学校での仕事を終えて家に戻ると、いつもとは違う違和感に気付いた。僕は玄関に見慣れないヒ−ルのあるくつをまじまじと見つめ、ある結論にたどり着くと、盛大にため息を吐いた。「まったく…とんだネズミが入り込んだものだなあ」先ほどまですがめていた瞳を閉じて、家の中に上がりこむ。と言うかもともとここは僕の家のはずなのに、どうしてあのひとのくつがここにあるのか。居間に入ったら問いただしてやろう ――― そう思って、スラッとふすまを開く。 「ねえ君 ――― 寝てる」 大きく予想に反した姿に、僕はなんとも間の抜けた顔になってしまった。ほんとうに、このひとには毎回驚かされてばかりだ。コロコロ表情が変わるし、それでいて怒るということをあまりしないし。かと思えば、大胆にもひとの ――― 異性の部屋にあがりこんだりする。まあ、彼女に鍵を渡したのは僕だから部屋にあがりこむことなんてそう難しいことではないんだけど ――― ないん、だけど。 「無防備にも、ほどがある」 彼女、の寝顔をじいっと見つめ、もう一度大きくため息を吐く。起こすのを多少、躊躇われたけれども、このままここで寝てもらうわけにはいかないと、僕はの肩を揺さぶった。「、いつまでそうしてるつもり?」グラグラと、結構な振動がの身体を襲っているはずなのに、彼女が起きる気配はまったくない。「いい加減に起きないと、どうなっても知らないよ」悪戯心からそんなふうに言ってみたけれど、やっぱりは起きてくれない。よほど疲れているのか、とため息をついていると、「むあ…雲雀さんの声…?」と言う間抜けな声が聞こえた。 「そうだよ、。やっと起きたかい?」 「え…わあっ雲雀さん!お、おかえりなさいっ」 「うん、ただいま。それより君、僕の家でなにしてんの?」 「う−ん…学校でやりきれなかったあしたの授業の準備…雲雀さんの家でやらせてもらおうと思って…」 「自分の家でだって出来るだろ」 「たまにはご飯つくってあげようと思ったんだけど…寝ちゃって」 「はあ…もう良いよ、早く仕事済ませたら?」 どのみち帰ってくれそうにないんだし。僕は語尾にそう付け加えて、席を立った。「ありがとうございます、雲雀さん!」背中越しに、の元気な声が聞こえて、僕はふっと表情を緩めた。にはこういう、素直と言うか可愛いところがあるから、突き離せない。もうずいぶんとまえから、ずっとこの調子だ。「どうかしてる」つぶやいてから、それは良く分かっているのに、おかしな話だと自嘲する。どうして、彼女だけ、なんだろう? ――― その原因はたぶん、僕自身が一番良く知っている。お茶を用意しながら、僕はきょう何度めになるか分からないため息を吐いて、お盆を手にのいた居間に足を向けた。 「ん−、終わった−!」 「…お疲れ。もうすんだの?」 「うん!そんなに多くなかったから…あっ、ありがとうございます雲雀さん! て言うかすみません!勝手に上がりこんだうえにご馳走するはずのわたしがいろいろいただいてしまって…」 「まったくだね。て言うかいまごろになって謝る人間の気が知れないよ」 「うっ…重ね重ねすみません…。今度こそご飯つくらせていただきますので!」 「ふうん?まあそれなりに期待しておこうかな。で?準備はぬかりないの」 「それなりにってなんですか!あたし調理師免許持ってるんですよ!馬鹿にしないでください。準備ならぬかりないです」 「へえ?どうだか。まあ、ぬかりないなら問題ないね、いつ寝ても」ずず、とお茶をすすっている雲雀をなんとなく見つめながら、このひとがほんとうに「あの」雲雀さんなのかしら、と首をかしげる。同僚の教師にも、生徒にも、恐ろしく厳しいと定評のあった雲雀なのだが、プライベートだとこんなに穏やかな一面もあるものだとおかしくなって、思わず笑みをこぼしてしまった。 「なに?」 「ふふ…すみません、雲雀さんって怖いイメ−ジしかないってみんなが口をそろえてたから…」 「あのさ、君、いままで僕のなんだったわけ?」 「え?友達以上恋人未満?」 「はあ…そういうことをすっぱり言うのもどうかと思うよ。本人の前だし」 「えっ?あっ!すみません…!」我に返ったは、恥ずかしさのあまり俯いた。「まあ、そういうところも嫌いじゃないけどね」「え…?」雲雀の意外な一言に、今度はが驚く番だった。「君だって教師のはしくれなんだろ?だったらいまの言葉の意味が分からないほど間抜けじゃあないだろう」ビシ、と的を射るような台詞に、は言い返す言葉がなっくなってしまった。しまいにははあ、なんてため息が聞こえる始末。はこの場から逃げ出したい気持ちに駆られたけれども、雲雀がそれを許してくれないだろうということは、容易に想像出来た。 「逃げようなんて、卑怯な考えは棄てたほうが無難だよ」 「うっ…やっぱりだ…だめですか…」 「だめだね、きょうは返さない」 「う…雲雀さんはやっぱり鬼だ…」 雲雀さんの腕が伸びるのと、彼の「なんとでも言ってれば良いよ」と言う自信に満ちた声が耳元で聞こえたのとは、ほとんど同時だった。すべてにおいて、強要されているというのに ――― なぜだか、心はひどく穏やかなのだから不思議だった。 Last-minute romance |