あたしの隣には山本さんて言う男の人が住んでいるんだけれど、この家に住まうようになってからというもの、あたしは一度もその人とはち合わせたことがない。料理をする音、ラジオを聴く音、テレビの音。出かける時の、扉を開閉する音 ――― いろんな音は聞こえるから、ちゃんとそこにいて、「生活してるんだ」って感じはするんだけれど、逢うことがないから、変な感じだ。 ―――― あの日から、もうずっと。


「山本君なら、いないよ?」
「う…わあ!さ、沢田さんっ!こんにちはっ」
「はは、こんにちは。て言うかそんなに驚く?」
「ごめんなさい…癖みたいなものなんです…。それより、山本さん…いないって…?」
「うん。今度はちょっと留守が長くなるかもって言って…なんの用事だったの?」
「これ…ごあいさつにって、思ったんだけど…あたしがちょっと前に入ったときもいなくて」
さん…ありがとう。僕逢うことが多いから、僕でよかったら渡しておくよ?」
「え!ほんとうですかっ、助かります!良く会うって…お友達か何か…ですか?」


聞いたらまずいことなのかと思って、ちょっと遠慮がちに言ってみたんだけれど、大家さんでもある沢田さんははじめて逢ったときとなんら変わらない笑みを浮かべて「うん、実はそうなんだ。さんが逢いたがってたって、伝えておくよ」と言ってくれた。沢田さんて、見た目そのままだなあ…優しい人だなあなんて思いながら、去っていく沢田さんの背中を見送った。その背中が、なんだか妙に男らしく見えたというか、たくましく見えたというか ――― うん、とにかくそんなふうに感じたのはいまから数カ月まえのことだ。あれから新しい環境、生活にもずいぶん溶け込んできて、あたしの中では日に日に、「山本さんに逢ってみたい」っていう気持ちが強くなっていった。


「山本さんて…どんなひとなのかなあ…」


日課である日記をつけながら、ぼんやりとつぶやく。すると、寝室の壁のほうからコンコン、という物音が聞こえて、あたしはビクッと肩を震わせた。ここは古いから、と聞いていたこともあってネズミか?と疑ってもみたけれど、次第に大きくなっていくその音に、あたしは言い知れぬ不安のようなものを感じていた。あたしは意を決して寝室に向かい、そっと音のするところに腰を下ろした。コンコン ――― やっぱり、何かをたたくような音は、ここからする。あたしは原因を探るべく、恐る恐る壁に自分のこぶしを近づけ、何度か打ちつけてみた。コンコン、コンコン、と応答しあうように音が反響する。


「山本、さん…なのかな…?」
「あたり。良くわかったな」
「!!」


突然男の人の声がして、あたしは派手に転げ回った。どたどた、ばたん。そんな痛々しい音が、部屋中に響き渡る。うわあ、いまのすっごく近所迷惑だったかもしれない。いや、間違いなくそうだ。あした目があったら、ちゃんと謝ろう…あたしがそんなことを思いながら後頭部をさすっていると、壁の向こうからクスクスという笑い声といっしょに「大丈夫か?いまの音、ぜって−頭打っただろ」と、自信に満ちた言葉が返ってきた。だからあたしはかちんときて、「誰のせいですかっ!」と思わず大きな声を出してしまった。先ほどの失敗経験はなんだったのか、と自分でも疑いたくなる。


「わりわり。だいじょうぶか?」
「だ…、だいじょうぶです、けど」
「んなら良かった。て言うかお前、こんな時間まで起きてんだな−」
「バイトが長引いちゃって…残業ある時はこんな感じですよ?」
「ふうん、も学生なのに大変なのな−」
「あたしのこと…、知ってるんですか?」
「ん?まあな!こないだツナにあいさつの品もらってさ。そんときに聞いたんだ、のことをな」


「沢田さん…」いろいろしゃべってくれたんだろうな、と思うと恥ずかしくて縮こまってしまいたくなる。あたしがうずくまっていると、山本さんが「ツナに聞く前から、知ってる」なんて言うことを言い出して、あたしはパッと顔をあげた。「がここに来る前から、ずっとな」そう話す声はなんだか寂しげで、あたしは振り返って壁に両手を添えた。この壁の向こうに、山本さんがいる。「ずるいですよ…」あたしがそう言うと、山本さんは「ハハッ!な−にがズルイんだ?」て笑いながら、そう言った。そんなふうな、優しい、声がした。


「あたしは山本さんの姿すら見たことないのに…まるであたしのこと、なんでも知ってるみたいな…」
「んなことね−よ。おまえだって、ちゃんと俺のこと知ってんじゃんか」
「え!ええ?な、なにを…?」
「ほら、住所とかな?」
「〜〜〜っ、山本さんっ!そりゃおんなじアパ−トに住んでるんだから、当り前ですっ!」


あたしが本気で怒っているのに、山本さんの笑い声がやむことはなかった。近所迷惑なんじゃないかって思ってみたけれど、そう言えばここは一階の端っことその隣、二階じゃなかったのが幸いだと心底そう思った。「冗談だって!何度かすれ違ってるはずだぜ?俺たち」腹痛−なんて言いながら、山本さんは言った。きっと壁の向こうで、笑いすぎて流れた涙をぬぐっているに違いない。そんなふうに思ったら、怒りを通り越してあきれてしまう。


「わりわり。お詫びときょうのお礼にさ、今度すれ違ったら肩たたいてやるよ」
「合図のつもりデスカ−」
「まあそ−なるな!見逃すなよ?お前目ぇ前髪で隠れてるし…つかあれもったいね−ぜ?可愛いのにさ」
「なっ…!ひとのこと笑うだけ笑っておいて今度はセクハラですか!?」
「な!おまえなあ…見た目のわりに負けず嫌いなのな−」
「はあ…なんだかあたし、きょうはすごい疲れました…」
「そ−か?俺はきょう、お前のおかげで結構楽しいんだけどな」
「はいはいそうですか。山本さんそろそろ休んだらどうですか?あしたも早いんでしょ」


あたしがため息交じりにそういうと、山本さんは「お?俺のライフサイクルが分かるようになったか−、なんか嫁さんみたいだな!」と言う冗談じみたことを言ってきた。よ、嫁、嫁さんってあなた!自分がいま何を言っているのか分かってるんですか!「ん?分かってんよ?それよりお前こそ早く休めよ、疲れてんだろ?」誰のせいですか、ほんとうに。あたしがあきれ気味に黙っていると、ひとしきり笑ったらしい山本さんが「じゃあな、きょうは楽しかったよ。サンキュ−な」と言って、コンコンとまた合図を送って来た。だからあたしもおやすみなさいの意味を込めて、コンコンと返事をしてみた。隣り合う部屋の壁は冷たいはずなのに、今夜はなんだか温かいような―――そんな気がした。



ドルチェの気配
それから数日経って、あのひとはちゃんと合図をくれました。「君のことが好きになった」って、お世辞付きで。