―――― どこからか、風に乗って優しい音色が聞こえる。否、それは音色と言うより声だった。ひどく澄んだ、歌声だった。




「僕としたことが…どうしたんでしょうかねえ」自嘲するように笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を吐き出す。それほど暑くもなかったはずなのに、額にはわずかに汗がにじんでいる。悪夢でも見たのかと言われそうだが、決してそんな生易しいものではないことくらい、ちゃんと分かっている。寝ていたわけでも、熱にうなされていたわけでも、――― ない。


――― どこで何を、してるんですか君は」


テーブルを支えに、かたんと静かに立ち上がる。旋律は、音色のような旋律は止み、歌声も消えていた。そのとき、唐突に理解した。が、いなくなったのだと ――― 主人が寝ている間にいなくなるなんて、何かのホームドラマのようだ、と骸はまた自嘲の笑みを浮かべた。「?」呼んでみても、やはり返事はない。彼女が愛用していたオルガンの席には、確かに先刻まで当人がいたことの痕跡を残しているというのに。「なん、だ…この…言い知れない感情は…、これが不安、か…?」汗をぬぐい、呼吸を整えるに落ち着く。 ――― 知らなかった。がいなくなるというその事実が、こんなにも悲しくつらいものだっただなんて。


…」
「―――呼びました?骸さん」
「ああ…そんなところにいましたか、
「骸さん、あのね」


たまらなくなって、思わずの身体を抱きとめた。よほど驚いたのか、は一瞬肩を震わせた。「む、骸さん?」困惑したような声が、とても、とても、愛おしい。「あたしね…ランボちゃんの10年バズ−カに当たって、それで」静かに、穏やかに紡がれる言葉は、一切の淀みなく、心の中に溶け込んでいく。「逢ったんだよ、10年後のあなたに…骸さんに。なんだかすごく、」「…」「はい?」少しだけ肩を離すと、はことんと可愛らしく首をかしげて、自分のほうを見つめていた。


「ズルイですよ、君ばかり…未来の僕に逢って」
「あれ?えと…すみません…?ていうかまだ二回目くらいですけど…ね…?」
「十分です。僕は一度も、未来の君を見たことがない」
「え−と…ええと…」
「すみません、やっぱり困らせてしまいましたね…まあ良いです、いずれ逢えるんだから」
「骸、さん…」


名前を呼ぶ声が、とても愛おしい。いいや、のすべてが愛おしい。ほんの少し、がいないと思っただけで、あんなにも不安になるなんて、ついこの間までは分からなかった。「…僕は、10年後も、あなたの隣にいましたか…?」先ほどの不安からか、そんな疑問が口先をついた。だけれどは、一瞬目を見開いただけで笑みを浮かべ、「…はい、ちゃんと。ちゃんと、あたしの隣にいてくれていました…ありがとう、骸さん」と言って、ぽんぽんと自分の背中を優しくたたいた。その手つきが、仕草が、あまりにも優しくて―――なぜだか、泣いてしまいそうになった。これはたぶん、安心感からくるものだと、なんとなく分かっていた。


「逢えますよ、すぐに。きっと…」
?」
「骸さんがあたしのそばにいてくれる限り、必ず」
「生意気な」
「な!なんですかっ?あたしだって心配して…!」


お互いの唇が触れ、の瞳がもう一度開かれる。そのひとつひとつが愛しくて、手放したくないとさえ願ってしまう。だから「仕返しです」と言ってほほ笑んで見せれば、もまた「これでおあいこですね!」ととても嬉しそうに笑みを浮かべる。ああ―――自分は、この笑顔を守れるためならば、なんだってやろう。の笑顔を見るたびに、そう思わされるのだから、不思議だ。不思議でならない。



「はい、なんですか?骸さん」
「―――おかえり」
「っ骸さん…ただいま…!」
「これからもずっと、僕のそばに…いてくれますか」
「はい、もちろん」


君が笑う。それだけで、この世界がもう少し、美しいものなんじゃないかって思う。そう思えてしまうほどに―――ああ、この心は君に、よほど心酔されているらしい。



こうやって僕はきっと溺れてゆく