粛清に晴れの日は向かない
さあさあと雨が降り注いでいる。土砂降りでなかったのが幸いだ・と傘を持たない少女 ―― はため息を吐いた。
にわか雨が降る、とは聞いていたがたいしたことないだろうと思って、傘を屋敷に置いてきてしまったのだ。これがまずかったのか、出かけて数時間で、雨は降り出した。
いつもなら傘を差してくれる執事の骸も、わたしのかわりにとあいさつに行ってくれているから、当然ここにはいない。「良くないことって、続くものですね…」力なくつぶやいて、
空を仰ぐ。当然のように晴れ間などなく、むしろどんよりと灰色の雲がうごめいている。晴れる気配はない。
「 はぁ… 」
自然と出てくるため息に、いい加減嫌気が差してくる。ため息なんて吐いても状況が変わるわけじゃあないし、ましてや時間が戻るわけでもない。は途方に暮れたまま、ひとの往来なんかを眺めた。誰も、わたしの気持ちになんて振り向かないだろう。誰も、わたしになんて見向きもしないだろう。
誰もわたしが令嬢であることに、興味すら持たないだろう。そんなふうに思ったら、ますます気持ちは沈んでいった。ほんとうに、ひとつも良いことなんてない。
昔はよく、落ち込んだとき父親に「ほら、飴玉だぞ」なんて言って飴玉をもらって、喜んだりしていたっけ。だけれど ―― いまは、違う。
飴玉をくれるひとがいたとしても、このひどく落ち込んだ気持ちは明るくなんてならないだろう。はもう一度、ため息を吐いた。雨宿りをする気はない。
たとえば雨宿りをしたところで、この気分が晴れるわけでもないから、わざとそうしない。風邪を引くことを分かっていたけれども、そうしない。
「骸さん…まだかなぁ」
ぽつんと、執事の名前を呼んでみる。いまごろは、屋敷中を探し回っているころに違いない。家主がいないのだ、慌てないほうがおかしい。
まぁ、あんなことがあっても、こんなに雨が降り続いていても、涙ひとつ流れない自分もあまりひとのことを言えた義理ではないが、そろそろ来てくれても良いのに・と期待してしまう。
「骸さん…」名前を呼んで、しゃがみこむ。ほんとうにだらしのない子供だ・と笑いたくなる。だけど、いまだけ。いまだけだから ―― ねぇ、お願い。「早く来て…」どのくらいそうしていただろう。
遠くのほうからパシャパシャと、水を弾く足音が聞こえて、はそっと顔をあげた。ずっとふさぎこんでいたせいで、視界はまだ晴れない。だけど、雨の音はするのに自分は濡れていないことに気づいた。
「骸、さん…?」
「なにしてたんですか、こんなところで」
「う…、ごめん、なさい…わたし、」
「様…?大丈夫ですか、」
「ごめんなさい…、ごめんなさい、」
ひたすら、謝ることしか出来なかった。なぜ、自分はこんなにも謝っているのかあとになっても分からなかったけど、あのときの自分は謝らずにはいられない心境だったんだろう。
「様…」骸の、いまにも消えてしまいそうな声を聞きながら、は再び顔をうずめた。不意に骸の息遣いが近くで聞こえて、それでもは顔を上げる気にはなれなかった。「サ−ビス料は、ちゃんといただきますからね」骸はそう言って、優しくの背中をさすってくれた。不思議と、震えが収まっていくような気がした。あんなに寒いと感じていたはずなのに、
少しずつ暖かくなっていくのが分かる。「ごめん…ごめんなさい骸さん、」「もう謝らないでください、あなたはひとつも悪くない」骸の言葉が、どれも優しくて、はとうとう涙をこらえきれなくなった。
「教えてください、骸 さん…。わたしたちに、手に入れられないものなんて、あるんですか…」
「…」
「失うものも あるんですか…?」
「 ―― そのお話は、様が泣き止んだあとにして差し上げます。 ですからいまは、黙っていてください…」
「骸、さん…」
「お願いです、様」耳元で、そんなささやくような声が聞こえる。いつもの、茶化すような声色じゃあない。苦しさと、優しさが入り混じったような声だ。
だからはもう、押し黙ることしか出来なくて、ただただひたすらに声を殺して泣き続けた。そうしなさいと、急かすように雨が降り続くから、わたしにはもうこの涙を止める術はなかった。
それからもずっと、骸は傘を差したまま、背中をさすってくれていた。黙ったまま、なんにも言わずに、ただ静かにそうしてくれた。手がくたびれてしまうだろうに。
あとでその手を、今度はわたしがさすってあげようなんて思いながら、うずめていた顔をあげた。「骸さん…」「おや、もう良いんですか?立てますか?」骸さんはそう言って、いままでさすってくれていたほうの手を差し出す。
「ありがとうございます…、おかげでもう大丈夫みたいです」
「…まぁ、そういうことにしておきましょう。 行きますよ、仕事が山積みです」
「…ええ、分かっています。 ですが…少しだけ、ゆっくり歩いても良いですか?」
声はもう震えておらず、いつものお嬢様の凛とした声だ・と思った骸は「仰せのままに」とちょっとだけ皮肉を込めてそう言った。そうしたらはくすくすと微笑んで、目頭をぬぐった。「手を、貸してくださいな」はそう言って、首をかしげながらも手を差し出してくれる柔らかな彼の手に、そっと触れた。「様?」当然のように、だけれど少しも動じもせず、声を張り上げる骸に、は「草臥れてしまったでしょう、これはお礼です。怖がることはありません」といって、笑みを浮かべる。「すみません…」とほんのちょっとうなだれる骸に、また笑みがこぼれた。
「いえ、良いんです。 サ−ビス料には程遠いですが、いまはこれで許してください」
「あれは、なんといいますか、」
「冗談とおっしゃりたいんでしょう?でも大丈夫、ちゃんと明細には書いておきますから」
ならほんとうにやりかねないから、骸はもう何も言えなくなってしまった。こんなことならあんな冗談、言うんじゃなかった・とあとになっていつも後悔する。
そんな骸の心情を他所に、は「わたしね、思ったんです…泣きながら。こんなふうに身近なひとを失ったことはなくて…ですけれど、それなのになかなか思うように泣けなかった」と何事か語り始めた。
話の意図が読めない骸は、相槌を打つことも忘れての話に耳を傾けた。どうやら雨は、少しずつだがやんできているようだ。
「あなたのおかげです」
「どういう意味ですか?」
「あなたが優しくしてくれたから、わたしは両親を思って泣くことが出来ました」
「様…それは…」
「違いません。あなたが優しいひとだから、大切なひとを思って泣くことが出来たんです」
声はとても凛としているのに、表情はひどく穏やかで、骸はほんの少し心が痛むのを感じた。別にうそを言っているわけでも、だましているわけでもないのに、この後ろめたさはなんなんだろう。
雨はやんで、様も泣き止んでいるというのに、今度は自分のほうが落ち込んでしまっているようだ・と骸は嘆息した。こんなこと、いままでなかったのに、いったいどうしたと言うんだろうか。
骸は再びため息を吐いて、戻ったらココアでも入れてやろう・と隣をゆるゆる歩くお嬢様の横顔を見つめ、そんなふうに思った。それから、あの話もしてやらないとな・と思うと、なんだかまたため息が出た。