さわさわと、あたりに吹き抜けている春風は、まるで自分のめのまえにいる少女そのもののようだ・と僕はそんなふうに思った。 すべてを包み込むように、優しく背中を押すように、優しさの種を振りまいていく。しばらく幾多もの黄に抱かれた彼女の背中を見つめていたかったけれども、 彼は決意したかのように顔をあげて「こんなところにいたんですか、」と愛しいひとの名前を呼んだ。あと何回、こんなふうに名前を呼ぶことが出来るだろうなんて、思いながら。


「…骸さん。よくここが分かりましたね」
「花好きののことです、ちょっと考えればすぐに分かります」
「ふふ、良くご存知なんですねわたしのこと」
「伊達に数年、いっしょにすごしていたわけじゃあありませんからね」


皮肉を皮肉で返す。最早それは、僕たちの中では当たり前のような ―― 日常的のような。つまりはそう、習慣になっていた。はっきり言ってしまえば、僕と彼女は付き合っている・と言うかそういう関係だ。 だからもちろん、は僕のことも全部知っているし、僕もまた少なからず、彼女のことを知っている。お互いの時間を長く共有するということは、そういうことだ。 そう、は僕がマフィアの ―― 危険な組織の一員であることを、そして僕が当時、非道な道をたどっていたということを、知っている。だけどもう、自分の中では限界だった。


「お天気で良かったです。 …骸さん?なんだか、元気がありませんね」
の観察力の高さにはかないませんね…でもまだ、話さないでおきます」
「…そうですか」


はそれだけ言って、この花びらたちが舞い上がるかのような、ふんわりとした笑顔を見せた。否定も、肯定もしない。そんなところが彼女らしい、と僕は思った。 そんなだからこそ、強く惹かれた。すべてを話しても良いとさえ、思えた。いまになってそれが間違いだったと気づくなんて、いったいあのときの自分に想像出来ただろうか。 答えの見えている問いかけなど、それ以上のつまらないものがあるだろうか。僕はそう思い直し、こっそりとため息を吐いた。


「良く見つけましたね、菜の花畑なんて」
「菜の花だけではありませんよ、近くに確か桜の木もあったはずです」
「そうですか。 それよりも、僕の質問の答えは?」
「ふふ、すみません。そんな顔をしなくても、ちゃんとお答えしますよ」


くすくすと、まるで自分たちのまわりに吹いている春の風のような音で微笑むと、「春の妖精が教えてくれたんです、なんて言うのは答えになりませんか」と言って人差し指を唇に添えた。 その様子はまるで少女そのもののようで、彼女のそう言った年相応な部分を見ると、嬉しくなるのだから不思議だ。「小さいころからここは、わたしの秘密の隠れ家だったんです」はそう言って、咲き誇る花花を愛でるような手つきで、瞳で、ぽつぽつと昔を思い出すように、懐かしむように、話を進めていく。僕はただただ、聞き逃さないように、耳を傾けているだけだ。


「入り口が鬱蒼としているおかげで、ここには誰も近寄れません」
「…確かに、あの桜並木がなければここは見つけられなかったかもしれませんね」
「でしょう?だから、ここにわたし以外のひとが入ったのは、あなたがはじめてなんですよ」


そう言って、またふわりと微笑む。ああ ―― だめだ、またひとつ忘れていく。またひとつ、なくなっていく。言葉が、思いが、いろいろなものがなくなって、また別のものに生まれ変わる。には、そういう力がある・となんとなく分かっていた。そしてそれは、自分自身にとっては脅威のひとつだ・と脳内でシグナルが発せられていた。そんなふうに思うようになったのは、と付き合うようになってから、すぐのことだ。 最初は、気のせいだと思った。だけれど、かすかに芽生えた違和感は、やがて確信へと変わっていった。それはなんだか、まるで彼女をすきになったときの過程に似ていると思った。あのときの気持ちと、似ているって。


「心を、決めたのですか」


不意には骸を振り返って、どこか凛とした声でそう言った。春風が、一瞬ふわっと舞い上がる。はそれでも瞳をそらさずに、こちらを見据えている。 まるで、これから僕の言おうとしていることが分かっている・とでも言っているかのようだ。「そのために、わざわざこんなところまでわたしを探しに来てくれたんでしょ?」はそういうと、ほんの少し寂しそうな目をして自分を見据えた。「…分かりました。ここを抜けたら、夢はおしまいです」はそう言って、まっすぐにまえを指差した。その先は、自分たちがさっき辿ってきた道、桜並木のある道。


「今回ばかりは、わたしの魔法は通じないみたいですね…ほんの少しだけ、悔しいです」
…、ほんとうに、すみません。 結局僕は…そういう人間だったんです」
「いいえ…、いいえ、違います。 骸さん、あなたは…やっぱり、わたしが望んだとおりのひとでしたよ」


であったときに話してくれた、の理想のひと。それがそのままの僕だと、穏やかに微笑んでくれた。自分のすべてを話しても、拒絶せずに受け止めてくれた、穢れなきひと。穢れなき、恋人。 僕はこの、夢のようなひと時を、永遠に忘れることはないだろう・と心の奥底で思った。僕が愛した、たったひとりのきみ。そのひとつひとつが穏やかで、暖かくて ―― 手放したくないとさえ、願った。 だから、これは決別。このまま、との思い出を、彼女への思いを、この場所へ残していくための、儀式。は自分がそう言う人間だと分かっていたうえで、ここにいた。が教えてくれなくても、そんな気がしていた。


、最後にひとつだけ…聞いても良いですか」
「なんですか?骸さん」
「僕はあなたを、愛せていましたか」
「 Yes ――― それ以外に、答えようがありません。 骸さん、夢のような時間を…ありがとうございました 」


もうあなたの名前を呼べないのが、唯一の心残りです。はそう言いたそうな顔をして、だけれどやっぱり微笑んで見せる。どこまでも気高いんだな・と思うと、僕はやっぱり頷いた。それでこそだ・と。だから僕は微笑んで、の頬に触れた。「大丈夫です、きっとまた会えますよ。 ここではない、どこかで」そう言っての表情を見てみると、「まさか来世、なんて言う臭いことを言うつもりじゃあなかったでしょうね」なんて言って、笑っている。 僕はまた皮肉のやりとりか・と苦笑して、をそっと抱きしめた。彼女のぬくもりを、暖かさを、もう一度出会えたとき思い出せるように。「む、骸…さん?」どきどき、との鼓動が高鳴っているのが分かる。それすらも、いとおしい。だけど、僕は言わなくてはならない。行かなくてはならない。「…。僕があなたに背を向けても、あなたが微笑んでいることを…、願っています」そう言ってす、と腕を放す。ほんとうはとても、名残惜しかったけれど、手放す。「ありがとう」が、笑う。春風とともに、さまざまな種類の花びらが舞い上がる。手放したくない、この場所を。手放したくない、きみを。手放したくない、なにもかも。それでも僕は、背を向ける。世界でただひとり愛したひとに、背を向ける。そして春は、盛りを迎える。



ではまた、来世で
image song by Time after time - 花舞う街で - from Mai Kuraki