勉学もほどほどに、のお気に入りの庭で午後のひとときを過ごしていると、 ふわりと春風が僕たちを包んだ。「暖かい…もうすぐ春なんですね」はうっとりとしたふうにそう言って、こちらを振り返った。 僕は紅茶のおかわりを注ぎながら、「そうだね」と相槌をうった。「ほんとうに連れないひとですねぇ、あなたは」ため息混じりにそう言って、は頬にあたった髪を払った。 その仕草ひとつひとつがとても美しく、僕は思わず魅入ってしまいそうになったけれど、「僕がそういう人間だって分かっていて言ってるなら、令嬢として恥ずべき行為だね」と悪態をついた。


「そう言えば雲雀さん、お母様に聞いた話なんですが」
「…なに?」
「しばらく実家に戻るって…、それはほんとうですか?」


普通は驚いたり、引きとめようとしたりする場面のはずなのに、はひとつも慌てずにひとつひとつの言葉を紡ぐ。それも、ひどく穏やかに。 それを再認識した途端、僕の心はあっという間に淀んでいった。この気持ちの正体を、気づきたくはなかったけれど、幾度となく繰り返されるそれに、否応なく気づかされる。 これは ―― そう、俗に言う嫉妬心とかいうもので、僕は自身にもどうすることも出来ないその思いに、ひどく苛立っていた。すなわち、自分自身に苛立っていた。 なぜ、この僕にもどうにも出来ないものがあるのか・と。そんなはずはない、と。これまでに経験したことがなかっただけあって、動揺はひとしおだ。


「 …雲雀さん?」
「 … 」


「恭弥」はよほどのことがない限り、僕のことを名前で呼んだりしない。それは僕がそう呼ぶのを嫌うと知っていてのことで、その気遣いはとてもありがたかった。 そのあたりはさすがに令嬢なんだな・と感心したりしてみるけれども、いまの時点ではそこはそれほど重要ではない。「…なに」ようやく我に返ってそう言ってみれば、はくすくすと微笑んで「雲雀さんがぼんやりするなんて、珍しいじゃないですか。これも、春のせいですか?」なんて、冗談を言ってよこす。ほんとうに、このお嬢様には驚かされてばかりだ。 感心させられることばかりだ。「寝言は寝てから言うものだよ」僕はため息混じりにそう言って、に二杯目の紅茶を手渡す。トイレが近くなっても知らないからね。


「はいはい。 冗談はこれくらいにして…、ほんとうのところ、どうなんです?」
「だから、なにが?」
「…まだぼけてますね?実家に帰るというのはほんとうなのかとお聞きしてるんです」
「ああ…、うん。ちょっとね、野暮用が出来たもんだから」
「お忙しいんですね、副業…と言うんですか?けれど、ご無理は禁物ですよ」
の心配には及ばないよ、その辺ちゃんと徹底されてるからね」


自信満々に言ってみれば、やっぱりは口元に きれいだ とさえ思わせる笑みを浮かべて「それは失礼しました雲雀さま」と皮肉めいた言葉を返した。それからはあっという間に二杯目の紅茶を半分ほど飲み干して、 ふうとひと息ついた。「お聞きしたところ、長期不在のようでしたので…ひょっとしたらと思って、伺ったんです」ちょっと不安に思っていたんだろう、はほんの少し瞳を眇めてそう言った。 まさか心配されるとは思ってもみなかったから、ほんの少し驚いた。ほんとうに、きょうはどうしたというんだろう。驚いてばかりだ・とさっきまで思っていたことをまた繰り返してみる。 そんな思いが表情に出てしまっていたのか、はどこかおかしそうに笑って「あなたが驚くのは無理もありません。あなた自身、知りえないことでしょうから」そう言い、ほんのちょっと勝ち誇ったような顔をした。


「どういうことだい?」
「いずれ分かりますよ、きっとね」
「きみも焦らすのがすきだね。そんなことしたって、なんにもならないよ」
「分かってますよ、そんなことは。それより、先ほどのお話に戻りますが」
「ん?」
「ひょっとしたら雲雀さんがわたしに仕えることをやめてしまうんじゃないかと思ったんです」


「…なにを言い出すのかと思えば」冷静を装ってそう言ってみるものの、内心は少し動揺していた。そんなはずはない ―― 自分がの執事を辞めるなど、あり得ない話だ。を見てみれば、もう「良かった」なんて言いながら安堵の笑みを浮かべている。ほんとうに、きょうの自分はおかしい。もさることながら、それでも自分は彼女よりもおかしい。 それははっきりと認識出来ているのに、心がゆらゆらと揺らめいて、落ち着かない。「大丈夫だよ、きみにはまだ未練があるんだから…きみの執事を辞められるわけがないんだ」なんていう言葉が出て来たのは、 きっと春の陽気のせいだと思いたい。ああほんとうに、きょうの僕はおかしくて仕方ない。



「大丈夫、君にはまだ未練がある」