俺の通っている高校は、文武両道の進学校。 県内の進学校ランキングで三位以内に入る学力的にもトップクラスと言えるこの高校に入ったのには、理由があった。 もちろん、その「 理由 」がなければ何も、無理に近い苦労をしてまで、自分からしてみてもこんなハイレベルな学校を選んだりしない。俺だって、自分の力量を見極める目くらい備わっている。 その理由というのは、単純に俺自身が抱えている 秘密 のためだった。そう俺は誰にも言えない秘密が、いくつかある。最重要機密。まさにそんな言葉が似合うほど、重大な秘密だ。 「そう言えば、知ってました?きょうわたしたちのクラスに教育実習生さんが来られるんですよ」 「教育実習生?」 「はい。なんでも、この高校を主席で卒業されたもとOGの方だそうで…その方がすっごくお綺麗なんだそうです」 この学校のOGが教育実習にやって来る。ただそれだけなのに、なぜこんなにもクラス全体がざわめいているのか、俺にはすぐに検討がついた。 この高校の教員は、ほとんどがベテラン、若年層の男性教師。女性教師は数えるほどしかおらず、おまけにそのほとんどが俗にアラフォ−と呼ばれる40代の女性たち。 だから、20代前半の教育実習生 ―― とりわけ、女性というところに話題性があるのだろう。高校に入ってはじめてクラスメイトとなった三浦ハルの情報によれば、そのひとは美人らしい。 美人と言うより、綺麗系のお嬢さん?三浦ハルが、さっきの言葉を訂正するように首をかしげる。…どっちなんだよ。俺が内心で苦笑していると、始業のチャイムが鳴った。 「ちなみに、英語の先生なんだそうですよ」 去り際、三浦ハルはこっそり俺にそう耳打ちをして、ウインクなんかをよこした。…いったいなんだっていうんだ?確かに、いまは三時限めが終わったばかりで、このあとの科目は英語だけれど。 しばらくのざわめきのあと、ガラガラ、と教室の扉が開く音がして、生徒たちはいっせいに静まり返る。俺は何事かと思って、扉のほうを向いた。そこには、いつもの担当教師と ―― 見覚えのある女性の姿があった。 あまりの衝撃に、俺は思わず席を立って「…?」と名前を呟いた。ほんとうに小さな声で言ったつもりだったのだけれど、それがみんなに聞かれていたかどうかまでは分からない。 三浦ハルのほうを見てみれば、悪戯っぽく笑みを浮かべている姿が視界に入った。どうやら彼女は、今回の教育実習生が彼女であることを、知っていたようだ。…不意打ちにもほどがある。 「はじめまして。朝にも担任の先生から紹介があったと思いますが…教育実習に来ました、です」 「わ−きれい−」 「美人だな−。たけし、知り合いなのか?」 「え?あぁ…まぁ…」俺は歯切れの悪い返事をして、すとんと腰を下ろす。生徒たちのざわめきが再び大きくなる中、先生の「皆さん静かに!短い間だけれど、よろしくね」という言葉と笑みを最後に、授業が始まった。 それからは普段となんら変わりのない授業風景が続いたのだけれど、俺にしてみれば妙に長く感じる一時間だった。ぼんやり問題を解いている間に終業のチャイムが鳴り、の「きょうはそこまで。その課題は、次の授業までに済ませておいてね」と言う声で我に返った。…なにしてたんだ、俺。 半分ほどしか解けていない問題を見下ろし、小さくため息を吐く。そうして、友達に「トイレに行って来る」といって席を立ち、あわてての後姿を追う。 「ま…!待ってください、先生」 「山本くん、どうしたの?課題、終わった?」 「あ…いえ、課題はまだ…」 「でしょうね。あなた、ずっとぼんやりしていたもの。言いたいことは分かるわ、だからあとで裏庭の時計塔に来てね」 はそう言ってふんわりと笑みを浮かべ、くるりと軽やかに踵を返した。その様子は、落ち着いた女性そのものの雰囲気で、俺は「変わったんだな…」とほんのちょっと寂しくなった。 昔のころは無頓着で、無邪気で、ひとの気持ちなんか見向きもしなかったのに、いまではひとの心情を汲み取れるまでに成長している。時間の流れって、平等のようでそうじゃないんだと苦笑した。 クラスメイトたちとの昼食も手短に済ませて、俺は「野球部の連中と話があるから」と適当に言い訳をして、の待つ裏庭に向かった。そこはあまり人気のない場所で、学校でも利用するひとはほとんどいないと聞いている。 日差しがあまり差し込まず、ちょっと寂しい雰囲気をかもし出しているというのもひとつの理由だそうで、俺にはいまいち理解できなかった。どこの学校にもありそうな、普通の裏庭なのに、何をそんなに嫌うのか。 俺が腕組みをしながら裏庭に足を踏み入れると、いちばんに視線をひきつけたのはやはり古く風情の残る時計塔だった。そのそばにぽつんと一本、狂い咲きをした桜が立っていた。そこに、もいた。 「」 「あ…山本君。来てくれたんだね、ありがとう」 「来いって言ったの、だろ」 「ふふ、うん、そうだったね。ありがと…座らない?」 くすくすと微笑みながら、はそう言って古びたベンチを指差した。ところどころ、足許にコケのようなものが生えているのが気になったが、まあ仕方ない。 俺は頷いて、のあとに続いてベンチに腰をおろした。ひやりと冷たい風が、ふたりの頬を撫でる。は寒いのか、マフラ−に埋もれて手に息を吐きかけている。 確かに、きょうはいつもよりちょっと寒い。そう言えば、天気予報で寒波がどうの・って言っていたような気がして、俺は道理で寒いはずだと内心で納得していた。 「久しぶりだね…何年ぶりくらい?」 「さぁなぁ…お前んち、転勤族だったろ。ガキんとき確か隣町に引越したんだっけ?」 「うん、そう。小学生くらいだったかなぁ…でもね、高校に入ってやっと落ち着いたんだあ」 はそう言って、嬉しそうに笑みを浮かべる。まえなんて一年おきくらいに転校してたもんと補足して、俺のほうを見やる。「…まじで」思っていたことをそのまま言うと、は「マジマジ。だからそれが嫌で、何度も山本くんちに逃げ出してたんだよね−。結局連れ戻されちゃうんだけど」と言って、昔を思い出すようにその澄んだ瞳をほんのちょっと眇めた。そう言えば、そんなこともあったな。俺はそう呟いて、笑う。 ほんとうに、懐かしい。何年ぶりかなんて、思い出せないくらいずっと昔のことで、ほんの少し心が浮き立つ。こんな気持ち、野球以外でいままであんまり経験したことなかったから、ちょっと驚いた。 「おじさん、元気?」 「ああ、相変わらず元気だぜ。そう言えば、俺に内緒で親父に剣道習ってたんだって?」 「ん?うん、護身用にね。そんなこと山本君に知られたら、女の子らしくないって笑われちゃうから黙っててって、お願いしたの」 「なんだよそれ−。笑うわけないだろ?護身のために武術をするってやつも少なくないんだからさ」 「ふふ、うん。まあそうなんだけどね−なんでかそのとき、わたしはそのことが山本君に知られるのが嫌だったみたい」 そう言うとは、俺のほうを振り返ってはにかむように笑みを浮かべた。なんだろう、この気持ち。嬉しいような、くすぐったいような。あのときの気持ちがまた、俺の中で暴れだしている。落ち着かない。 そんなときふと思い浮かんだのが「は夢…かなえたんだな」と言う台詞だった。そうしたらがやわらかく微笑んで「うん。山本君は?」と聞き返したので、俺は「まだ途中、かな」とほんの少し、胸が痛んだことに気づかないふりをして、苦笑した。 するとは「そっか…でも嬉しいな。約束、覚えててくれたんだね」と言って小指を突きたてた。幼いころの、青臭い約束。「山本君は野球選手、わたしは学校の先生。いっしょに夢をかなえようねって約束があったから、 わたし…きょうまでがんばってくることが出来たんだよ」はあのときの約束を反復しながらそう言って、優しい笑顔を見せる。その微笑みに、また少し胸が痛む。叶わないかもしれない約束に、夢に、良心が痛む。胸が、軋んでいる。 「今度は、山本君の番だよ」 「…ああ、そうだな。時間かかるかもしれないけどな」 「うん、それでも良いよ。山本君がテレビに出るの、楽しみにしてる」 「はは、テレビか。そんな日が来ると良いなぁ…」 なんだか、もう限界だった。あんなにもあふれていたへの愛しさも、いまでは苦しみに変わっている。それは自分がいちばん、よく分かっている。うまく笑えているかどうかさえ、分からない。 そんなとき、体中が熱くなっているのを感じて、俺は思わず目を瞬いた。「山本君、無理してる」の息遣いが、すぐそばで聞こえる。トクン、トクン、近くに聞こえるの優しい鼓動 ―― 落ち着く。俺はの優しさに抱かれたまま、呟いた。自分でも無意識のうちに、呟いていた。 「が、すきだ」 花 時々 雨 |