きょうからわたしにも、両親のような「執事」がつくことになりました。
ほんとうはひとつのファミリ−(家)にひとりの執事というのが我が家の決まりなんですけれど、 両親が多忙なために特別に、わたしにも専属の「執事」をつける・ということになったのです。つまり今回の一家にふたりの執事、というのは異例中の異例なのです。それは10年近くこの家にいるわたしがよく知っています。 そしてこれはお父様とお母様の最終決定で、学生でありながら決して暇ではないわたしのことを考えてのことだと理解しているつもりです。


「すまない、…ろくにお前の相手もしてやれなくて」
「いいえ、大丈夫ですお父様。お父様こそ、くれぐれもお体をご自愛なさってください」
…ああ、分かっている。じゃあわたしは仕事に出向くから、新しい執事と仲良くな」


お父様はそう言ってわたしの頭を数回撫で、背広を翻して屋敷を出て行ってしまいました。わたしはなんとなく寂しく思いながらも、お父様の背中を見送ります。 そして次に思い浮かんだのは「新しい執事」さんのことでした。病気がちのお母様のお話によると、年齢はわたしとおんなじくらいか少し上、笑顔がよく映える好青年ということでした。 それでいて戦闘能力が高く、得物は日本刀だとかで、武術に興味のあったわたしにとってみれば、お会いするのは楽しみなことこの上ありません。…そのはずなのに。


「どきどきするのは、なぜでしょう…」


わたしはほんの少し逸りだした胸を押さえるようにしながら、深呼吸をしました。これで少しは落ち着けたようです。わたしは「よし!」と勇んでから、新しい執事さんがいるという応接室に向かいました。 メイドさんがコンコン、と軽くノックをしてから「はい」という男性特有の ―― ですがそれでいて柔らかな声が聞こえて、わたしの心はまた少し、騒がしくなりました。「様がお見えになりました、山本様」メイドさんがそう言って、 わたしに中へ入るように促します。わたしはメイドさんに「ありがとう、ご苦労様です」と言って青年を見据えました。ぱたん、と扉の閉まる音が、なんだかやけに大きく聞こえます。


「はじめまして。この家の長女、と申します」


そんなふうに自己紹介をして、令嬢らしくあいさつします。純白のワンピ−スのすそ、その両端を持ってちょっとだけふわりとあげて、会釈。自己紹介のあと、わたしは返事のない相手をまじまじと見詰めました。 なにか、おかしな言い方をしてしまったんでしょうか…気になります。「あの、山本さん?」わたしが目をぱちくりしながらそう問いかけると、山本という名前の青年はようやく我に返った様子で「すみません、お嬢様。自分は武、山本武と言います」とあいさつをしてくださいました。ですからわたしは失礼がなかったんだと安堵して「これからお世話になりますね、山本さん」と言ってふわりと微笑んだ。


「あ…、はい!自分も、この身に代えてもお嬢様をお守りいたします」
「いえ」
「…はい?」
「お守りいただけるのはとても嬉しいです。ですけれど身に代えられてしまっては、わたしも悲しくなります」
、お嬢様」


山本さんが、驚きと感動の入り混じったような瞳をして、ただただわたしを見つめています。それこそ呆然と。わたしがくすりと微笑むと、山本さんは「お嬢様は、ほんとうにお優しい方なんですね。…お話に聞いていたとおり」と言って、 ほんとうに嬉しそうに笑みを見せてくださいました。その笑顔がとてもまぶしくて、わたしの心臓はまたどきどき、と高鳴り始めました。きょうはいったい、どうしたというんでしょう。 わたしは落ち着かない自分の心臓に首をかしげながらも、メイドさんが用意してくれていた和菓子とお茶を手に、そのうちのひとつを山本さんのまえに置きました。


「これは、お父様方からのほんのお気持ちです。お菓子はわたしが選んだんですよ」
「和菓子…?」
「山本さんはおすし料理だとか、和のものがお好みのようだとお父様の執事さんから伺ったんです」
「…なるほど。お気遣い、ありがとうございます」
「どういたしまして。…そうです、こうしましょう」


お茶を飲み始めた山本さんをよそに、わたしはそう言ってぱん・と両手をたたきます。案の定、山本さんは驚いたのか「あちっ」と言ってお茶をこぼしそうになっていました。 わたしがくすくすと微笑んでいると、「あんまりです、お嬢様…」とほんの少しうな垂れた。「すみません、悪気はなかったんですが」はそう言って、近くにいたメイドさんにお手拭を用意してもらいました。 メイドさんたちも、心なしか緊張が和らいだ様子でくすくすと笑いあっていました。つられてわたしも笑っていると、少し表情のこわばった山本さんが見えて「ごめんなさい、山本さん」と謝った。なんだかさすがに、後味が悪くなりました。


「ほんとうにごめんなさい…お詫び、と言ってはなんですけれど」
「…なんでしょう」
「わたしのことは名前でお呼びくださいな。それから敬語も必要ございません」
「そんな。それこそ死活問題じゃないですか、お嬢様…!せめて、様と…!」
「はい。ですからそうお呼びくださいとお願いしているんです、山本さん。これは意地悪でもなんでもありませんから」
「敬語を使わないと言うのも…いささか常軌を逸しているのでは」


山本さんはそう言って、ほんの少し大袈裟にため息を吐きました。失礼ですね、これはわたしなりの配慮なんですよ。けれど、メイドさんがたくさんいる中で、敬語なしとするにはあまりにも危険。 これではお互いに 暗黙の了解 なんてあったものじゃありません。ですからわたしはメイドさんたちを振り返って「あとは結構です。少し席をはずしていただけませんか」と言いました。 しばらく笑みを浮かべていたメイドさんたちも確かに頷いて「かしこまりました、様」と言って、快く了承してくださいました。ほんとうに、素敵な人材に恵まれているなあと、こういうときはすごく実感します。


「人払いをしましたね、様」
「そうでもしなくては、お父様にバレてしまいますから」
「何か、これからまずいことでもなさるおつもりですか?」
「とんでもありません。山本さんにひとつ、お願いがあるんです」


「…なんですか?」山本さんは一瞬、いぶかしそうに眉間にしわを寄せて、どこか神妙な面持ちでわたしを見据えます。わたしは年相応に微笑んで「いまのように、誰もいないときだけお互いに敬語を使わないということです」と言いました。 すると山本さんはなるほど、と納得したように頷いて「そういうことでしたか。いや、様さえ良ければそうしますが…使い分けるのが大変そうですね」と少し困ったように笑みを浮かべました。…嫌です、さっきみたいに笑ってください。 あのまぶしすぎるほどの笑顔を、わたしに見せてください。「様?」黙り込んでしまったわたしを心配してくださっているのでしょう、山本さんはわたしの顔を覗き込んでわたしの名前を呼びました。どうしてでしょう、ひどく心地良いんです、山本さん。


「あ…、ごめんなさい。これはわたし個人のお願いなんです。迷惑なわけがありません」
「そうですか、分かりました。」
「よろしくね、山本」
「! いきなりか。けどまあ…こちらこそよろしく、


わたしが敬語を解いて手を差し伸べると、山本さんは一瞬驚いたふうに眼を見開きました。けれどもやがてわたしがあんなにも見たかった笑みを浮かべて、わたしの手を握り返してくださいました。 ねえ、山本さん。たったひとつの、お願いです。何があっても、その笑顔だけはなくさずにいてください。その笑顔があれば、わたしはどんな苦痛にも耐えられるような気がしてくるのです、だから。


はやる心を抑えきれない