その日は朝からすごく冷え込んでいて、厚着をしてもコ−トを着ていてもこの冷え切った空気が和らぐことはなく、いい加減イライラしていた。 あれはそう、確か委員会が終わってすぐのころ。あの日も結構遅くまで残って(溜まりに溜まった)仕事を片付け終えたときだった。 「…?」 もうとっくの昔に帰ったと思っていた思い人の姿を見つけて、ほんの少し心が浮き立つ。だけれど、その心情を悟られないように、ゆっくりと彼女に近づく。 近づくにつれて聞こえてきたのは、小さな鳴咽とすすり泣く声、それだけだった。それ以外はまったくの沈黙で、静寂で ―― 雲雀は思わず、背後から抱きしめてやりたい気持ちに駆られた。 どうして彼女がこんな時間に、こんな寒空の下にいて、涙を流しているのか。その理由を問いかけてみたい気はしたけれど、いまはそんなことどうでも良かった。 ただ、に笑ってほしかった・それだけなのに、それだけが酷く難しい。こういうとき、不器用な自分は嫌だなあ・なんて思ったりするけれど、雲雀はとうとう我慢出来ずに、を抱きしめた。 「! だ、…雲雀、くん?」 「…どうしたの。誰に泣かされたの」 「違う、の…わたしが勝手に、泣いちゃってただけで、」 「涙が出るのには理由があるんだろ。言わないなら、僕がそいつを泣かせなきゃならなくなる」 言って、ぎゅう・と抱きしめる力を強める。「痛い…、痛いよ、雲雀くん、」そんなの悲願するような声が聞こえたけれど、そんなのは知らない。 このまま、を奪い去ってしまえたら、いったいどれほど楽なんだろう。が、雲雀ではないほかの誰かを思っていたことを、彼はもちろん知っていた。 少なくとも、の身の回りのことはそれなりに理解しているつもりだし、なにより自分は彼女がすきだ。はじめて会ったあのときから、いまでもずっと。それなのに、 「…六道、骸だね」 「!」 「黙ってるってことは、肯定だね。どうやら僕と彼はとことん相容れないらしい」 「ごめん、なさい…雲雀くん、」 謝るな・といいたかった。謝るくらいなら、あんなやつのことを思うのはやめて、自分といっしょになることを選んでもらいたい。だけれど、たとえそれがかなっても、きっと心までは奪いきれないだろう、という確信があった。 だって。の心は、どうしたって、たとえば強引に唇を奪ったとしたって、永遠にあいつのものだと分かっていたから。だからなおさら歯がゆくて、自分の思いを打ち明けることが出来なくなってしまうんだ。 そんな雲雀の思いも、はきっと気づいているだろうから、気づいてもなお自分に微笑みかけてくれるんだろう。結局自分は、の優しさに甘えているだけなんだ。の「雲雀、くん?」と名前を呼ぶ声が聞こえて、抱きしめていた手のひらを離し、彼女を見据える。その瞳には、儚くも優しくあろうとするの意思が感じとられた。 「だめだな…、僕は」 「え、」 「きみの気持ちを知っても…きみの優しさにすがろうとしてる」 「そんな!雲雀くんはだめなんかじゃ…だめなのは、わたしのほうで、」 「それは…どういうことだい?」 言葉が、最後まで続かない。自分はこんなにも情けなかったのか・と思うと、思わず笑えてくるけれど、はだめなんかじゃない。それは、それだけははっきりと言える。それなのには首を振って「違うの…ほんとは、ここに来なくても良かった。それなのに来てしまったの…、ここには雲雀くんが、いるから」そう言って、目がかすむほど綺麗な笑顔を浮かべた。 そうか ―― それはたぶん、なりの愛情以上の、信頼。その事実に気づいたとき、雲雀は自嘲するように笑って「ほんとうにだめだな、僕は」と言って、と距離を置いた。 「雲雀くん…?」 「分かったよ、。きみのすきなようにすればいい…僕は、ありのままのを受け入れることにした」 「雲雀く、」 「だから、もう理由を聞くのはやめるよ。落ち着くまで、泣いたらいい」 「ほん、とう?あのひとをかみ殺すなんて、言わない?」 やっぱり、一度は返答に迷う。だけれど、不思議とそこに憎悪はなくて、大きな心での気持ちを、の彼への思いを見つめることが出来た。 鼻先で笑って見せ、「ああ、言わないよ」と言った。胸中で「たぶんね」と付け加えてから、よしよしとの頭を優しく撫でる。 「わたし…幸せだね。ふたりみたいな、優しくて素敵なひとに思われて…」 「なに縁起でもないこと言ってんの。理由、聞くよ?良いのかい?」 「…良いよ、教えても。そもそもだめなんて、言ってないけど、」 「まあ、そうなんだけど。無理に話す必要もない・って言いたかっただけ」 雲雀はそう言ってに背を向け、腕章についたほこりをぱっぱっと軽く払った。それがなんとなくおかしかったは、くすくすと笑みを浮かべて空を仰いだ。 さっきまで曇りがちだった雲は、少しずつだけれど確実に、快晴に向かっているようだった。月に群がっていた雲も、少しずつ散らばっていくのが見える。「帰るよ、」雲雀のぶっきらぼうな声が聞こえて、は微笑んで頷いた。ここに来た、理由はね。雲雀くんのその、不器用な優しさが恋しくなったからなんだよ・なんてことは、言えるはずもなく。 月明かりに照らされたふたつの影が、とても優しく並んでいるかのように見えた。 ささやかに愛すること |