「暑い−!」
「ああも−、うっとうしいなぁは!」
「うっ…ごめん…、だって暑いんだもん…」
「夏なんだから、暑いのは当たり前でしょ」
「暑くないの?」
「暑いに決まってんじゃん。だから少しでも暑くないように振舞ってたのに…の所為で台無しよ」

怒りを隠そうともせず、うちわを仰ぐ友人を見つめ、は申し訳なさそうに「…ごめん」と呟いた。そうして、何も言わないように心がけながら、グラウンドに目を落とす。 きょうは体育の授業の一環として、高校野球の応援に来ている。もうひとりの友人もまた、吹奏楽部の一員として少しまえから甲子園の応援に来ているはずだ。 暑いのに楽器なんて吹けるよなぁ、と心底敬服する。自分ならきっと、楽器を運んでいる段階で体力の限界に達しているに違いない。 いまはまだ、五回目の表だ、九回まではまだ遠い。は、掲示板を見上げつつ、表情を暗くした。そんな自分に見かねたのか、友人が言った。

「たくも−、もうすぐ山本君が出るんだから、それくらい応援しなさいよ、幼馴染なんでしょ!」
「幼馴染だからだよ−、なおさら応援する気になれない」
「え−、なんでよ」
「ずっと見てきてるから。山本ならきっと一本くらいは大きいの打つよ…」
「ふうん…良く見てるんだね−」
「なに、その引っかかるような言い草は…」

ドリンクを飲み終えたらしい友人は、いわくありげに「別に−」と言って再びグラウンドを見下ろした。もんもんとした空気が、熱気が、球場全体を包んでいる。 その所為かどうかは分からないけれど、蜃気楼が見える気がする。重病か、と胸中で呟きつつ、バッタ−ボックスに立つ幼馴染をぼんやりと見つめる。 不意に山本と目が合い、一瞬ドキリとする。こんな反応、いままで何度も繰り返しているのに、いまのはなんだかいつもと違う気がして、余計にどきどきする。 まるで昔「おまえのために打ってやるよ」と言ってくれたみたいに。「見てろよ」っていう、サインみたいに。山本の構えと比例するかのように、胸の高鳴りが強くなっていく。どうしちゃったんだろう、わたし。

「あ…!」
「え、なに、」

友人がそう言ったのも束の間、山本のバッドが鋭い音を立てて速球を弾いた ―― 場外ホ−ムラン。走者が出て、あっという間に二点入る。 途端、客席から沸きおごる歓声、スタンディングオベ−ション。見慣れた光景に驚きつつも、ひとり静かに拍手を送る。ほんとうに、打った。 山本は、自分から宣言したことは必ず実行する。見せてくれる。だからそれが面白くなくて、応援も乗り気になれない。だからぜんぶ、山本の所為。 それなのに、ほんの少しでも胸が高ぶるのは、不思議だ。ほんのわずかでも、応援したい気持ちが生まれる。山本の動作ひとつひとつがそうさせるのかもしれない。

「ほんとうに、打った…」
「すっごいね、すっごいね!宣言してたの?打つって?」
「ん?うん…だから応援する気半減しちゃうんだよね…ほんとうにやっちゃうから」
「良いことじゃない。って…顔色良くないけど大丈夫なの?」
「へ…き、ちょっと気分悪いだけ…」
!?先生、が…!」

友人の悲鳴にも似た声が、脳裏に木霊する。しっかりしなくちゃ、山本が出てるんだから…その思いとは裏腹に、わたしはとうとう意識を手放した。

***

ミンミン、という蝉の鳴き声がかすかに聞こえる。はゆっくりと目を開いて、額に手を添えた。どのくらい、こうしていたんだろう。 まだはっきりしない意識の中、はじいっと天井を見上げた。熱風を感じる ―― まだ外にいるのだと思ったは、ゆっくりと腰を起こした。 そばには水が数本と、氷枕が置かれていた。ああそうだ ―― わたし、気分が悪くなって、そのまま倒れちゃったんだ。そんなふうに記憶を掘り起こし、あたりを見回す。 周囲には救護スタッフが数人と手当てを受けているひとが数人いるだけで、ほかには誰もいない。もう夕方だ、みんな帰ってしまったんだろう。

「もう起きて平気か?」
「え…わっ!た…武!?なんで…ミ−ティングは?」
「途中で抜けてきた。先生がお前のこと心配しててさ、迎えに行ってやれって」
「そっか…ごめん…迷惑かけて」
「ん?良いって、こんくらい。慣れてるし」

そう言って、にかっといつもの笑みを浮かべる。その笑顔を見ると、いろんな気持ちがあっという間に消えてしまうから不思議だった。もうずっと、ずっとまえから。 山本はユニフォ−ム姿のまま先生にあいさつをして、こちらへ戻ってくるなりの腕をつかんで、「帰るぞ」と言った。はまだ少しふらつく足を立たせながら「う、…ん」と言って頷いた。ミ−ティングに戻りたいのだろう、ほんの少し急いでいるのが分かる。

「あの…良いよ、送らなくて。このまま家に直行したほうが早いし」
「だめだ。送るまでが仕事なんだからな!それに、途中で倒れたらどうするんだお前」
「そう…だけど…、これ以上山本に迷惑かけらんないよ」
「あのな−、こういうときだけ苗字呼びに戻る癖どうにかしろよ−。
 それからここに来た時点でもう十分迷惑被ってんだから、変な気を使うなって…な?」
「そんな言い方しなくても…うん、分かった。ごめん、武」

山本は俯きながら自転車の二台にまたがるを見つめ、満足そうに微笑んだ。そうして自転車にまたがり、の家まで自転車を走らせる。 夕暮れ時の風が、ほんの少しだけ心地よい。「それにしたって、が熱中症とはな−」不意に山本がそんなことを言い、くつくつと笑った。 ようやくはっきりしてきた頭を抱えるようにしながら顔を上げ、は「なにがおかしいの」と言い返した。

「いんや、元気の塊みたいなお前がこんなことで倒れるなんて珍しいなと思ってさ」
「元気の塊って…あのね−、それも限界ってものがあるんのよ…」
「あはは、それが今回ってわけか−。まぁ確かに、帰宅部で鍛えてないには厳しかったかな−」
「む…武のあほ…」
「聞こえてんぞ−。ほれ着いたぞ、あとは平気だな?」
「うん…ありがとう、武」

が玄関先でそういうと、山本は「お−」と言って片手を振り上げた。自転車にまたがりなおす山本をなんとなく見つめながら、は「ねぇ、武!」と呼び止めた。 呼び止めたあとで、我に返った。用事なんてひとつもなかったはずなのに、何してるんだろう。だけど、だけど ―― 何か、言わなくちゃ。 そんな気持ちがまえへまえへ出て、自然と「見たよホ−ムラン!格好良かったよっ」なんていう言葉が口から出た。すると山本は一瞬驚いたように目を見開いて、 けれどもやがていつもの太陽のような笑顔を浮かべて「サンキュ−!またな!」と言ってあっという間に走り去ってしまった。その瞬間、吹き抜ける風が、とても穏やかに思えた。 夏はまだ、始まったばかりだ。

青に侵される