何処からか、優しくて心地の良い旋律が聞こえる。風の音に混じって、ふわりと耳の中に流れている。 ふと足を止めた骸は、もの珍しそうに目を眇めた。こんな廃墟で、ピアノを弾く人間などいるのだろうか。いや、普通ならこんなところで弾こうとすら思わない。 骸は興味が沸き、その音色の招待を突き止めようと耳を澄ませた。今度は意識して、集中しているからはっきり分かる。建物の中 ―― それも、奥のほうだ。 「さて…こんなところに音楽室なんてありましたかねぇ」 冗談半分に呟いて、顔を上げる。答える者はなく、骸は自嘲するのをやめて歩き始めた。詮索するだけでは、何も見つけられない。 とりあえず、音のするほうへ歩いてみることにした。どのみち、この施設は今後の拠点にするつもりでいたから、熟知しておく必要がある。 骸は中央にある建物の扉を開け、足を止めた。パキ、とガラスの割れる音がする。ここはもうずいぶん、廃れてしまっているらしい。 螺旋階段を上り、右側の通路へと足を進める。耳に聞こえる音はだんだんと大きくなり、高まる確信にわずかながら鼓動が早まる。 「ここ、ですね」 再度呟いて、ドアノブに手をかける。途端に音は止み、代わりに「 ―― そこにいるのは、誰」という、少女特有の高い声が聞こえた。 骸はこれはおもしろいことになりそうだと口の端に笑みを浮かべ「僕は骸、六道骸です。失礼して良いですか?」そう名乗り、声を待った。 間もなくして「そうですか、どうぞ」という返事が返り、骸は満足そうに「ありがとうございます」と言ってドアノブをひねった。途端に、光が視界をさえぎる。 「僕がここにいることを、ずっと知っていたんですか?」 「…はい。この建物の外にいたときから、分かっていました」 「それは、生まれながらの能力…と思って良いんでしょうか」 「…そうですね、わたし昔からひとの気配には敏感だったんです。 実際目には見えませんが霊の存在も、感知することが出来ます。たとえば…そことか」 少女はホ−ルの隅を指差して、目を閉じた。「ひとり…いや、ふたり。こちらを見ているみたいです」そう言って、何処か寂しげに微笑んだ。 「この施設には…結構多いですからね、未練のあるらしい魂たちが」周囲を見回して、呟くようにそう言う少女を見つめ、骸は珍しそうに目を見開いた。 それならば、怖いとは思わないのだろうか。こんなところにいたくないと、思わないのだろうか。聞きたくてたまらなくなった。けれど、それよりもまえに聞くことがある。 「それで…あなたは?」 「あ…失礼しました。自分が名乗っていないのに、相手を詮索するなんて失礼ですよね。 わたしは…いまは並盛中学に通っています。最近転校して来たばかりなんですが、ここにはちょっと馴染みがあったもので」 「では、。二つ三つ、質問があるのですが」 「…なんでしょう?」 「あなたはそんなに分かるのに、ここにいて怖いとは思わないんですか?ここにいたくないとも」 「そりゃあ、多少は怖いですよ。良くないのもいますし…ですが、わたしはそんな彼らのためにピアノを弾きたいと思ったんです」 と名乗った少女はそう言って、ふんわりと穏やかに微笑んだ。一瞬、時間が止まったような感覚に陥ったけれども、これは幻術でもなんでもない。 ひとが見せている幻なんだと思い、骸は我に帰った。自分は、幾多ものひとの命を奪い、この手を血に染めてきた人間。目のまえにいる少女とは、住む世界が違うのだ。 そのことを、忘れてはいけない。この少女と同じ世界で生きていられたら、なんて思ってはいけない。何があっても、ぜったいに。 「だから…、ここで演奏していたんですね?」 「はい。理由は、ただそれだけです。ほかにはなんにも、ありません」 「でしたらこれからが弾くのは、レクイエムということになりますね」 「良く分かりましたね。とても難しかったですが、最近やっと全部弾けるようになったんですよ」 聞いていてくださいね、と言っては椅子に座りなおし、白と黒の鍵盤を弾いた。繊細な指からあふれ出すのは、寂しくも優しいメロディ。 聞いているだけで ―― 不思議だった。自分だけかもしれないけれど、何故だか切なく聞こえた。自分が慰められているような、そんな感じだ。 だから余計に、胸が苦しくなるような気がした。胸が締め付けられるような、気がした。骸は深呼吸をして、窓辺にもたれかかった。ほんの少し、めまいがする。 気持ちよさが ―― 繊細さが、すべてを浄化していくかのような感覚。こんな感覚は、はじめてだ。引き離したいのに、とどめていたい。 「やめて、ください」 「…はい?」 「やめてください…!」 哀願、と言っても良かった。まさにそんな気持ちで、に演奏の中止を頼んだ。そうすると、は自分の異変に気づいたのかすぐに演奏を止め、駆け寄った。 「骸さん、大丈夫ですか?」穏やかなアルトの声が、耳に障る。これ以上、ここにいてはいけない気がした。このままじゃあ、を苦しめてしまう気がした。 それならばいっそ、殺してしまおうか。骸は一瞬魔がさしたことに、動揺した。彼女は、マフィアとはなんの関係もない人間だ。ただの、一般人なのだ。 「大丈夫です…少し、めまいがしただけですから」 「…そうですか。少し、座っていましょう。大丈夫、すぐに良くなりますよ」 「ありがとうございます、」 少し具合の良くなったところで、にそう話しかける。の、あの穏やかな笑みが、視界にあふれる。午後の日差しが彼女の背後を照らして、余計絵になっていた。 「何を話したら良いんでしょう」しばらく考えにふけっていたが、首をひねりながらそう言った。自分から言い出しておきながら、なんという無責任な。 骸はそう言いだしそうになるのを我慢し、考えるふりをして「そうですね…、あ。実は僕、きょう誕生日なんですよ」なんていうことを言ってみた。 するとは案の定嬉しそうに笑みを浮かべて「ほんとうですか?おめでとうございますっ」と言い、ぱん、と両手を合わせた。 「あ…でしたら誕生日プレゼント…」 「良いですよ、のあの演奏で十分でした」 「でもあれは…。じゃあ、今度は骸さんのために…!でも、また気分悪くなったりしたら…」 「はは、良いんですよ、ほんとうに。それでも気がすまないと言うのなら、考えがないことはないですが」 「気が済みません!考えってなんですか?わたしに出来ることならなんでも良いですから!」 「でも…僕は初対面の人間ですよ?それに男なんですよ。怪しまないですか、普通」 「普通のひとから見たらそうかもしれません…でもほら。わたしたち、仲良くなった気がしませんか?」 「…お気楽なお嬢様だ」 「…へ?あ、ご、ごめんなさい…?」 あわあわと混乱するを横目で見やり、ふっと笑みをこぼす。ではないが、確かに。こんな近しい気分になれたのは、ほんとうに久しぶりだ。 だからと言うわけではないが、きょうのお礼も込めて、骸はの手のひらを自分のそれで受け取るような形をつくり、彼女の手の甲に唇を寄せた。 そうしての顔を見上げてみると、彼女はおもしろいくらいに顔を真っ赤にして、「な、ななな、何を…!」と先ほどよりも混乱していた。 「お礼ですよ。外国では良くやるあいさつみたいなものです」 「こ、ここは日本ですっ!」 「分かっていますよ。だから、僕はここに来た」 「骸さん…?そういえば骸さんは、どうしてここに…」 骸はす、との手を離し、ゆっくりと立ち上がった。そして「…しばらく、ここには出入りしないほうが良い。あなたのためです」そう言い、の表情を伺った。 その繊細な目には、はっきりと動揺の色が浮かんでいた。明らかにどうして、と聞いてくるときの目だ。骸はただ首を振って、「あなたに、残忍なものを見せることになる」とだけ言った。 それからに背を向けた。あれ以上、の悲しそうな ―― 寂しそうな目を見ていたくはなかった。彼女の涙を拭う資格なんて、いまの自分にはきっとないだろうから。 「…また会えると良いですね」 そう言って、ドアノブをひねる。いまのは、精一杯の本心から出た言葉だった。に、また会えると良い。今度は、彼女と同じ世界に生ける人間になった自分と。 それはきっと、遠い遠い先の話になるだろう。骸はそう思い、小さくため息を吐いて、ドアの向こうにいるであろうを思った。どうか、彼女がいつまでも穏やかに笑っていてくれるように祈りながら。 やわらかな耳鳴り |