キッチンから、風に乗ってほんのりと甘い匂いが漂ってくる。その匂いに混じって、何処か嬉しそうな鼻歌が混じっている。 オレは不意に読んでいた本を閉じて、カレンダ−を見つめた。きょうは、2月14日 ―― バレンタインデ−だ。遅れながら思い出し、自嘲気味にため息を吐く。 イベント事に疎くなるほど、仕事仕事と言っていなかったはずだけれども…いや、少なくともこの少女 ―― オレの幼馴染のにとってはそうは見えなかったから、 きょうに限って「時間あるんだったらいまからわたしの家に来て!」なんていうことを言って来たんだろう。まあ良いか、どうせ休暇中だったし。 そんなノリで、彼女に付き合っているわけだけれども。見ている限り、のチョコを渡す相手というのは、どうやらオレじゃあないみたいだ。 そう思ったら、なんだかおもしろくなくなって、オレはソファから起き上がって、キッチンにひょっこりと顔をのぞかせた。

「よ−、がんばってんな−」
「ディ、ディ−ノ?びっくりするじゃない突然!」
「鼻歌なんか歌ってっからだろ。そんなに作ってどうすんだオマエ」
「え?だってみんなにあげるんだもん。
 キャッバロ−ネのみんなに、ボンゴレのみんなに…ええとそれから、」
「…おい待て。まさかヴァリア−の連中にまでやるつもりなんじゃあ…?」
「ほえ?悪いの?」
「…オマエなあ…まあ良いや、言い出したら聞かね−し。
 その代わりオレは手伝わね−からな。行くんならお前ひとりで行けよ」
「ええ−…」

ええ−ってオマエな(可愛いけど…)オレはあくまでも休暇中なんだぞ。そのことは少し前にも伝えたはずなんだがな…と、後頭部をかきむしる。 ロマ−リオやツナあたりならともかく、なんでヴァリア−の連中のところにまで付き合わなくちゃならないんだ。そう思い、ふっとため息を吐く。 ほどなくすると、しばらく膨れていたが「…良いもん、バジル君に手伝ってもらうもん」と言った。なんで、よりにもよってあの子の名前が出るんだよ…。

「オマエ…よく覚えてんな、バジルのこと」
「えっ…うん、まあ…いろいろあって、ね…」
「ふうん…?いろいろね…」

いまので、ぴんときた。おそらく、の本命はあの少年だ。確か、彼もまた束の間の休息に、このイタリアへ足を運んでいたはずだから、 きっとどこぞで待ち合わせをしているんだろう。なるほど、これでようやくが落ち着き無くそわそわしている理由が分かった。 オレはきょう何度目になるか分からないため息を吐き、に「しょうがねぇなあ…ロマ−リオやツナたちには、オレが渡して来てやるよ」と言った。 よくよく考えれば速達で届けることも可能だが、オレが渡したほうが確実だし、も安心するだろう。

「ほ、ほんとう?でも良いの?兄さん折角の休みなのに…」
「あ−、どうってことないさ。ちょっと顔を見せるだけだしな−」
「ありがとう、兄さん!そうだっ、兄さんには先に渡しておくね!」
「お−、サンキュ。人数分あんな。んじゃ、オレは行って来るぜ。さっさとバジルんとこ行け」
「う、うん!じゃあお願いね、兄さん!」

片付けも中途半端に、はラッピングされた包みをあわただしく手に取り、自分の家を飛び出した。オレはそんなの背中を見送りながら、 相変わらず忙しい子だと、もうひとつため息を吐いて、先ほど彼女が手渡してくれたチョコを見下ろした。「…オレも、には甘いなあ」呟いて、 それをポケットにしのばせ、自分もまた彼女とおんなじように家を出た。もちろん、きちんと家の鍵を閉めて。…そのころ。

「バジル君…!ごめんね、待った?」
「いえ、さっき来たところなので…走って来たんですか?」
「ま、待たせちゃ悪いと思って…兄さんにバジル君はそんなに長くこっちにはいないだろうって聞いてたから」
「…ディ−ノさん、のところにいたんですか」

不意に、バジル君の声色が変わったことに気づかなかったわたしは「うん。兄さんもちょうど休暇中で…イタリアに帰省してたみたいで、」と言った。 バジル君は低い声で「そうですか…」と言って、ふわりと、わたしの体を抱きしめた。ど、どうしちゃったんだろう、バジル君…!

「ば、バジル君…?ど、どしたの?」
「は…まだ、あのときの返事をしてくれないんですね…?」
「あ…」
「拙者は、もしかしたらと思って来てみたんです…でも」
「でも…?」
「は僕に会うなりディ−ノさんのことばかりで…拙者のことなんてもう…」

「バジル君…あのね」わたしは深呼吸をひとつして、少しだけバジル君の胸元を押して、距離を置く。それを見たバジル君は「…?」と不思議そうに首をかしげた。 わたしはかばんの中から小さくラッピングされた包みを取り出して、バジル君に手渡した ―― これが、わたしのほんとうの気持ちなんだよ、バジル君。

「これを…渡すために…?」
「う、ん…あのときの返事をしたくて…わたしね、やっと分かったよ…ほんとうの気持ち」

あのとき ―― 日本へ行くと行った、バジル君を見送りに行った空港で、彼に告白されたの。「いっしょに日本に行ってください」って。 いまにも消えそうな声で「ずっと、どんなときもずっと、自分の傍にいてください」って。それがすきですっていう意味だって気づけなかったわたしは、 結局最後までちゃんと返事が出来なくて ―― バジル君は「やっぱりだめ、ですか…。また会えたら…そのとき拙者に返事をください、」と言って、行ってしまったんだ。

「わたし…バジル君がすきだよ。いちばんは…バジル君だよ」
「…ほんとう、ですか?」
「うん。だからね…もう一度、言ってくれる?」
「…、拙者と日本に行ってくれますか」
「 ―― はい」

かみさま、お願いです。もしも幸福の残量が決められているなら、せめて。せめて、このときだけでも ―― この瞬間だけでも、とめてください。 永遠でなくても、永遠と感じられるだけの時間で良いんです。ねえかみさま。こんな願いは、わがまま、ですか?

この手をずっと、離さずにつないでいたいよ

爪先立ちて思うこと