きっちり一時間が経ったところで、の気分もだいぶん落ち着いたようだ。俺は頃合を見計らって「…帰るか?」とに言ってみた。は黙り込んだまま、けれどもしっかりと頷いた。もう、大丈夫みたいだった。それを見た俺はほっと安堵して、勘定を払ってといっしょに店を出た。 先ほどまで土砂降りだった雨も、いまは小雨に変わっている。その様子を見て、俺はきょうが雨でよかった、と内心そう思った。 だって雨だったからこのお店にを連れ込む理由が出来たし、お店にもひとがあまりいなかった。晴れていたら、また少し違ったのかもしれない。 とにかく、俺はきょう一日をそんなふうに締めくくって、のほうを振り返った。

「…送る」
「…良いよ。家、すぐそこだし。男の子といっしょだと、変に思われちゃうでしょ」

はそう言って皮肉っぽく笑い、傘を広げた。…確かに。俺はさっきのの言葉に、妙に納得しつつ、彼女に習って傘を広げる。 別れ際の路地で、はふと何かを思い立ったように「…また会ったら、話そうね」と言って俺に背を向けた。このままで、良いのだろうか。俺は、俺の気持ちを言わないままで、良いのだろうか。いや、ほんとうは分かっていた。 いま、何を言っても。どんな言葉を紡いでも、を振り向かせることは ―― 立ち止まらせることは出来ないのだと(だって彼女の心は、永遠に「彼」のものだとわかっていたから) そう思うと、俺は自分がひどく惨めに思えた。が誰を思っていようと、関係ない。そう声を張り上げても良いのに、そうしないのは…恐れているからだ。 そう告げることで、何かが終わってしまうことを…そして、に否定されることを、恐れているからだ。

「…こんなに弱かったんだな、俺」

自嘲気味に呟いて、ふっと笑みを浮かべる。だけどこの気持ちが晴れることはなく、この降り続く雨のように、俺の心の中に降り積もっていった。 そんなとき、背後から「…山本さん?」という聞きなれた声が響き、俺はぼんやりと振り返った ―― そこには、三浦ハルの姿があった。 私服のところを見てみると、どうやら買い物帰りらしい。ハルは俺の様子を見て驚いたのか目を見開いて「ど、どうしたんですか?そんな暗い顔をして、」と言った。 俺は、きょうまでのことを、ハルに話した。のことも、この不思議な ―― 苦しくてどうしようもない気持ちのことも、全部。

「山本さん…それは…それが、恋なんじゃないでしょうか…?」
「こ、い?」
「はい…ですから、その女の子のことをすきだって思ってるっていうことです」
「すき…って…なんだよ、それ」
さんを傷つけたくないと思うのも…胸が苦しいのも…全部。
 さんを守りたいと思っているから…大好きなんだって、心が叫んでいるからじゃないでしょうか」
「俺が…を…」
「行ってください、山本さん。いまならまだ、間に合います」
「ハル…俺、どうしたら…」
「山本さんの気持ちを、ありのまま伝えたら良いんだと思います。
 たとえ否定されたとしても…傷つくかもしれなくても、怖がってちゃだめです。
 だって…山本さんが気持ちを伝えることで、さんも変われるんじゃないかってそう思うんです」

ハルは「だから」と一息にそう言ってしまい、傘をくいっと持ち上げて穏やかな、優しい笑顔を見せた。ああ ―― 俺は、この女の子と仲良くなれてほんとうに良かった。 俺は「分かった。ありがとな…ハル」そう、ひと言だけ言って駆け出した。傘を投げ捨てて、ひたすら走った。間に合わないかもしれなくても、彼女を ―― を、追いかけた。

−!」
「え…山本、くん?どうしたの、傘もささずに…?」

見覚えのある背中を見つけ、無我夢中で呼び止めた。その後姿は紛れも無くのもので ―― きょとんとして振り返る彼女を見ると、なんだか妙に嬉しかった。 俺は呼吸が落ち着くのを待って、それからゆっくりと言葉を紡いだ。俺が「俺…に言いたいことがあったんだ」そう、話を切り出すとは「言いたいこと?なに?」と首をかしげた。

「俺は…いままで分からなかった。なんで、に会いたいって思ったのか…。
 こんなに苦しいのかなんて、考えたこともなかった。だけど…いまならちゃんといえると思ったんだ」
「…あの、なにを?」
が、大地ってやつのことを忘れられないのは分かってる。
 俺に勝ち目がないことも…だけど、これだけは言わせてくれ。俺は…のことが、すきみたいなんだ」
「すき…みたい、って…どうしてあいまいなの?」
「情けない話だけど…気づいたの、さっきだったんだ。親友に言われて、やっと分かった。俺って、どうしようもない馬鹿だよな…」
「山本君…」
「俺、に会えて良かった。こんな気持ちを見つけられたのも…のおかげだし、」
「山本…くん…。ありがとう…わたしも、山本君に会えてほんとうに良かった」

不意に、空気が和らいだ気がして、俺はじいっとの顔を見つめた。の表情には、もう一点の陰りもなくて、ほんとうに、心から嬉しそうな笑顔が浮かんでいる。 それを見たら、なんだか安心して、俺も自然と笑顔になった。それから、雨が止んだことに気づいて、とふたりで空を仰いだ。雲はもう、切れている。

「雨、止んだね…不思議」
「…ああ。あのさ、
「…うん?」
「春になったらさ、いっしょに桜を見に行かないか」
「…そうだね、それも良いかもしれないね…そうしたら、きっと…」
「ん?」
「…ううん、なんでもない。またあしたね、山本君」
「…ああ。気をつけて帰れよ」

「うん」と言って頷いて、の背中を見送る。それからひとり、日の照り始めた空を仰いだ ―― どうしてかいまは、春がとても恋しく思えた。

ありがとう。きみに出会えて、ほんとうに良かった。

春を恋う空