俺が、あの日記を開けなくなってから、一週間が経った。すなわち、それは俺がこの日記を見つけてから一週間すぎたことを意味している。 その日は一日中雨で、グラウンドが使えないこともあって部活は屋内でとなり、俺は残されたわずかな時間をもてあましていた。 顧問の話によると、きょうはミ−ティングもかねて、ビデオを見たり反射神経のトレ−ニングをしたりするらしい(あとは、校舎の具合によって階段の上り下りとか) 集合まではあと30分くらいある。俺はひともまばらになってきた教室内を見回して、気楽に話せる相手がいないと思うと、少しだけ落胆した。 そんなとき、不意に脳裏に思い浮かんだのは、開けずにいた ―― 続きを読めずにいた、あの日記だった。 いまならひともそんなにいないし、暇つぶしに良いかと思い、日記を取り出した ―― そのときだった。不意に、ガラッと乱暴に扉が開き、俺は慌てて顔を上げた。 入り口付近には、俺と同い年くらいの女子生徒がいて、じいっと、こちらを見ていた。そばには、彼女の友達と思われる女子がひとりいた。 その女子が、少女の背中を押して「ほら」と教室の中に無理矢理といった形で押し込んだ。

「あ、の…」
「ん?何か用か?つ−かあんた誰だ?」
「わ、わたしは二年B組、…あなたが、山本武君?」
「うん?ああそうだけど…なんか用?」
「そ、れ…っ」
「どれ?…ひょっとして、俺が持ってるこれのこと?」

俺は手に持っていた日記をぽんぽん、とたたき少女に指し示す。すると彼女は顔を真っ赤にして「そうです!」と声を張り上げた。 いまのは、ちょっとびっくりした。だから次の言葉を探すのに手間取ってしまったんだけど ―― いや。理由は、ほんとうは、それだけじゃないんだけど。 まぁ、いまは良いや。えっと…そうだ、日記。ええと…?ひょっとしたら、この日記の…持ち主…?

「あの、山本…くん?」
「ああ…わり、日記な。ひょっとしてこれ、お前の?」

一拍置いて、そう聞き返す。するとと名乗ったこの少女は、真っ赤にしたままの表情で、おもしろいくらいに何度も頷いた。 そんなに頷いて大丈夫かよって、こっちが心配になるくらい頷くもんだから、俺はなんだかおかしくなって思わず笑い声をあげていた。 当然のように、意味が分からないは不思議そうに首をかしげて、俺のほうを見ている。赤かった顔は、もうもとに戻っている。 これじゃあ、今度はこっちが「変なやつ」だ。俺はひとりきり笑ったあと「すまない」と侘び、と向き合った。

「はい。俺の机の中にあったから…たぶん、移動教室んとき忘れてったんだろ?」
「う…実はそうなの。良く分かるんだね…山本君って」
「何となくそんな気がしたんだ」
「そっか…ごめんね、邪魔だったでしょ」
「いんや?持ち主気になってたし、ちょっとの間預かってただけだから…ぜんぜん」
「そう…。あの、ね…。念のために聞くけど…もしかして読んだり…してない、よね…?」

は文字通りおずおず、といった感じでそう尋ねた。手にはしっかりと、俺がたったいま渡したばかりの日記が握られている。 俺は、返事に戸惑った。ほんとうのことを言うべきだって、頭ではわかっている。だけど、ほんとうのことを言ったら、 この少女はきっと傷つくに決まっている ―― だから、どうしたら良いのか、なんて言ったら良いのか、分からなかった。 俺は「う−んと、」と次の言葉を探しながら、少しだけ時計のほうに目を向けた。もうそろそろ部活が始まる時間だ。これ以上、時間を延ばすわけにもいかない。 そんなとき、まさにグッドタイミング、といった具合に部活仲間が「お−い武!野球部のミ−ティング始まるぞ!」という声がかかった(お前すげ−よ。神だ!)

「わり、俺これから部活なんだ。また今度にしてくれるか?」
「え、あの…ちょ、と!」
「あ−っと…じゃあこれ、携帯の番号な!これで連絡してくれ。ほんと、ごめんな」

俺はそう言って携帯電話の番号を書いたメモをに手渡し、もう一度謝ってからスポーツバッグとかばんを背負って、教室を駆け出した。 彼女たちからしてみたら「逃げた」と思ったに違いない。そう思われても構わない ―― 否、仕方ないと思った。だって実際、そうかもしれないのだから。 部活仲間といっしょに教室へ向かいながら、俺はこっそりとため息を吐いた。こんなんじゃ、だめだ。こんな、もやもやした気持ちを残したままじゃ。

「…あ…?」

結局、この雨模様のように気分も晴れないまま、俺は部活を終えて昇降口に着いた。と、そこには、先刻出会った少女 ―― が、 何処か、途方に暮れたような表情を浮かべてたたずんでいた。正しくは、何かを待っていた ―― のかもしれない。 その仮定は、次の瞬間肯定に変わった。「…山本君を、待ってたの」彼女は俺を見つけるなりそう言って、俺と向き合った。親友の姿は、もうない。

「いっしょに…帰らない?」

―― 驚いた。まさか、そんなことを言われるなんて思ってもみなかったから。おおよそ、先刻のことだろうと思うけれども、違う意味で緊張しているのは、何故だろう。 そしてその緊張が気のせいではないと、俺は心のどこかで認識していたから、それが妙にリアルに感じられた。それから俺とは、お互いの靴箱からくつを取り出し、 ふたつの傘を広げて、いっしょに肩を並べて校舎をあとにした。なんだか、変な気分だった。日記の少女 ―― と会いたいと思っていたはずなのに…そう。なんだか、苦しい。 しばらくの沈黙のあと、その沈黙を絶ったのはで、最初の言葉はやっぱり「さっきの続きだけど」だった。俺は、思わず固唾を飲み込んだ。 それを見たは何かを悟ったらしく、力なく微笑んで「やっぱり…読んじゃったんだね」と、何処か寂しそうにそう言った。ああ、やっぱり…俺はこの女の子を傷つけて、しまった。

「…すまない。最初は…いや、こんなこと言っても言い訳にしかなんないよな。
 の日記を読んじまったのは紛れも無い事実だし…それに…を、傷つけたのだって…」
「…山本君は、優しいんだね。噂どおりのひとだね…」
…?」
「ごめんね、しんみりしちゃって。だけど、この日記を読んだのが山本君でほんとうに良かったよ」
…ほんとうに、ごめんな。お詫びってわけでもね−けど、茶おごるよ。いや、おごらせてくれ…かな。
 なんつ−か…に会ってみたかったし…。これも何かの縁だろ−からさ…。いまから時間、大丈夫か?」

そう言うとは少しだけ困ったように首をかしげて、携帯のディスプレイを開いた ―― 午後五時。そうしては「…一時間だけなら」と無理に笑顔をつくって見せた。 ただそれだけなのに ―― ただ、当たり前のように話しているだけなのに、どうしてこんなにも、苦しいんだろう…?(いまの俺には、分からなかった) ひとまず俺は「ありがとう」と言って、人気の少ない、ちいさなカフェのお店に彼女を連れ込んだ。ここなら、安心して話も出来るだろう。 俺はオ−ダ−を頼むの横顔を何となく見つめながら、彼女はほんとうに自分と同い年の少女なんだろうかと、疑念を抱いた。だけども、は間違いなく二年B組と言っていた。 ならば、同い年なのはほんとうなんだろうし、彼女の言葉にうそや偽りは見つけられなかったから「ほんとう」なんだと思う。

「山本君は?何か頼まないの?」
「俺?俺はい−よ、は遠慮せずにすきなもん頼め」
「え…でも良いのかな。一方的な誘いとはいえ…初対面なのに…」
「良いんだよ、俺がそうしたいんだから。それはそうと遅くなると悪いから話進めようぜ」

俺は片手に水の入ったコップを持ち、そう言った。は何処か遠慮がちに「…うん」と言って、再び黙した。そんなんじゃ進められないだろ、と思うと、 自然と笑みがこぼれた。それを見ていたは少しだけふくれっ面をして「…なにがおかしいの」と言った。俺は「別に」と言って水を一口、口に含んだ。

「さてと…で、何から話せば良いの?」
「んあ?あ−っとそうだな…俺、実は全部は読んでね−んだ。半分くらい…しか」
「へえ…どうして読むのを止めちゃったの?」
「なんつ−か…読めなくなっちまったんだよ。理由は…うまく、言えね−んだけど…」
「ふうん…?変なの。それからずっとそのままなんだ…」
「…ああ。あの、さ…ひとつ、聞いても良いか」
「…なに?」
「こんなこと…聞いて良いのか分かんね−んだけど…その、大地ってやつとはどうなったんだ?」
「…」

沈黙。短い時間だったはずなのに、妙に長く感じた。それがまた、不思議だった。それからまもなくして、はゆるゆると首を振った。 それが会っていないっていう意味なのかどうなのか、計り知れない俺には、なんとも言えなかった。こういうとき、もう少し頭が良かったらって思う。 いや、この場合頭の良し悪しは関係ない…のかもしれないが、とにかく俺はそんなふうに思った。俺がぐるぐると考えていると、不意にが「…死んじゃったの」と言った。 あまりにも意外すぎる言葉に、俺は思わず「えっ」と聞き返してしまった。それがまた、を傷つけることになると、頭のどこかでは分かっていたかもしれないのに。

「…交通事故でね。部活の帰りだったかな…偶然、わたし大地君を見かけて…交差点で。
 横断歩道を渡ろうとしてたみたいで…そのとき、曲がろうとしてた車に巻き込まれたのを…」
「…見てたのか…」

言ったあとで、がこくんと頷いた。不幸な偶然ってあるもんだなと、不覚にもそう思ってしまった。だって、普通ならこんな場面遭遇しない。 そう思うと ―― の心境を思うと、とてつもなく気分が落ち込むのを感じた。にとってその場面はきっと悪夢のようで、唯一その場面だけがスロ−モ−ションのようで。 瞳を閉じていると、そのときの光景が浮かぶようで、余計に胸が締め付けられるような気がした。不意に、のすすり泣くような声が聞こえて、我に返った。

「わたし…すき、だったの…大地君のこと…。
 甲子園にいって…勝てたら…わたし…すきですって、伝えるつもりだったのに…!」
…、」
「結局…届かないままになっちゃった…もっと早くに気づけば良かったって、思っ…」

の言葉は、もう声にならなかった。実際、俺の耳にもノイズのようにしか聞こえない。きっと…は、きっと。この思いを、誰かに聞いて欲しかったんだ。 誰でも良いから、聞いて欲しかったんだ。そう思うと、なんだかさらに胸が苦しくなって、俺ももう、声に出せなかった。抱きしめるつもりだった両手も、空中を虚しく空ぶった。

いまはただ、きみのそばにいたいと思った。それだけだ。

春を恋う空