声も、顔も、何もかも分からない相手のことを、これほどに思うことがあるだろうかと、正直俺はどうしたら良いのか分からなくなった。 あれは ―― そう、数日まえのことだ。俺はいつもどおり部活を終えて、部活仲間と試験勉強をしていたときのことだった。 俺は机の中の棚にしまい込んだままのテキストを取り出そうと、手のひらで手繰り寄せた。不意に、ザラッとした感覚を覚えた。 「…ん?」 「ど−したたけし。教科書あったか−?」 「いや、まだ…」 「早くしろよ−あしたも練習だからんなに長く残れね−んだからよ−」 俺は分かってるって、と返事をしたあとで手繰り寄せた「それ」を開いてみた。どうやら、日記のようだった。持ち主を確かめるために、 最後のペ−ジを見てみると、読めそうだけど読めないというほどちいさな文字のとなりに、星印の記号が記されている。使い古しの日記、のようだった。 差出人を探すため、俺はこっそりとその日記をかばんの中に忍ばせた。それからようやく自分のテキストを見つけ出し、部員たちとの試験勉強を再開した。 「この日記、だれのだ…?読んでみたら、分かるかな」 帰り道、もう一度先ほど見つけた日記をかばんから取り出して、最後のペ−ジを開く。「これって、ど−見ても名前なんだよなあ…」呟いて、まじまじと眺める。 ―― このとき。少しだけなら、と魔が差した。これがいけなかったんだと、気づいたのは結構あとになってからだった。だけど、そうなるなんて思いもよらない俺は、 何のためらいもなく、最初の一ペ−ジ目を開いた。四月 ―― この日記は、去年の四月から始まっていた。並盛中学の入学式の日からだ。 そのときのことを、何となくだけど思い出してみて、俺はなんだかくすぐったいような、懐かしいような、不思議な気持ちになった。 それからしばらくは、俺たちと何ら変わりのない日常を送っていたようだけど ―― ある梅雨の日を境に、この少女に大きな変化が訪れた。 「遅刻した所為で先生に怒鳴られるわ、制服はずぶ濡れだわ、ヘアスタイルはめちゃくちゃになるわで大変だった。 そういえば…バス停で見かけたあの子、大丈夫だったかな。ちゃんと学校に間に合ったかな…他校生だったみたいだけど、心配だな…か」 簡単にだけれど、そんなふうに書かれていた。どうやら、その日はひどい雨だったようで、バス通学をしたようだ。 そのとき…これは俺の想像だけれど、他校生の男の子に会って、この日記の少女はその少年のことを何処となく気にかけているようだった。 きっと、その日はひどい雨のようだったから、バスが混雑していてふたり乗れるだけのスペ−スがなかったんだろう。そんなとき、彼が譲ってくれた、そんなところに違いない。 そんなふうに思ったとき、俺は何故だか「むっ」とした。それがほんとうに男の子かも分からないのに、どうしてそんなふうに思ったりしたんだろう ―― 分からない。 「きょうも、天気は相変わらず雨。いい加減うんざりするなあ…だけどきょうは、この間の男の子といろいろ話せて良かった。 今度野球の試合があるみたいだから、応援に行ってみよう。そんなことを話したら、その男の子はとても嬉しそうな笑顔を見せてくれた。 あ…またなまえ、聞くの忘れちゃったな…今度は、忘れないようにしなくちゃ…ねぇ。おもしろいなあ、この子」 譲ってくれた時点で、なまえくらい聞くだろ、と俺はお腹を抱えた。下の部屋から親父の「うるせぇぞ武!」っていう怒鳴り声が聞こえたから、 渋々笑うのを止めて、もう一度日記に目を落とした。試合の応援に行く日までは、どんな服を着ようかとか、何か差し入れをしたほうが良いかなとか、 そんな感じのことばかりが書かれていて、見ていてなんだかおもしろくなかった。だからぱらぱらと適当にペ−ジをめくって、次の週の日曜日の日記を読んでみた。 「長かった梅雨も、やっと明けるみたい。きょうは晴れて良かった。 大地くん、投手だったんだね。やっと名前も聞けたし、大地くんのチ−ム勝てたし、ほんとうに良かったな」 それから一行間を空けて、大地くんに中学は違うけど、また試合見に来てくれるかって言われた。ほんとうに嬉しかったから、良いよって言った。そう、書かれていた。 この「大地くん」ていう男の子に会ってから、この少女の日記、っていうか文体がなんつ−かすごく…幸せそうで、もちろん読んでいる俺自身もそんな気持ちになれたんだけど、 何処か ―― そう、何処か。心の隅の、隅のほうが、寂しかったんだ。そんなの、気のせいかもしれないのに、妙に納得している自分がいることも事実だった。 それから季節は夏に変わって ―― 夏の、中体連。この少女はハンドボ−ルだったようで、市営グラウンドで試合をしていたらしい。そのときに、偶然、あの「大地くん」に遭遇したようだ。 「帰りに練習見に来いよって言われて、見に行ってみた。気がつけばわたしは、大地くんばかり目で追ってた。 大地くんの笑顔は夏の太陽や、ひまわりに負けないくらいまぶしくて、いまのわたしにはとても眩しすぎて…。 ずっとずっと、見ているにはすごく、苦しかった。だけど、見ていたかった。どんなに苦しくっても、見ていたかった…」 …。しばらくの無思考のあと、俺は不覚にも「ベタだ」と思ってしまった。彼女はこれが普通に、世間一般に言われる「恋」というものなんだと、 このとき感じたんだろう。そうに違いない。現に俺も、いまこの日記の少女とおんなじ気持ちに行き着いた、のかもしれないのだから。 次のペ−ジから、俺はこの日記を読むのがつらくなって、とうとう閉じてしまった。黙したのどもとからは何も言葉は出て来なくて、 少しだけ重たくなったまぶたはわずかに熱を帯びているような気さえする。続きを読むには、いまの俺には少しばかり勇気が必要だと思った。 このとき俺は「彼女」に会ってみたいって、心からそう思ったんだ |