ディ−ノ兄さんが、イタリアにいる。ここ何年かはずっと日本にいたくせに、いったいどういう風の吹き回しなんだろう。 何故イタリア人のわたしがそんな情報を知っているのかというと、数日前ディ−ノ兄さん直々に知らせがあったからだ。 あのひとに会うと、毎回ろくなことがないから、正直会うのは気がとがめたが、久しぶりの帰省だ。今度はいつ会えるのか分からないんだし、たまには良いかもしれない。

「兄さん−!」
「よお、…ってぇっ」
「…相変わらずみたいね…もう少し落ち着いたら?」
「な…!まえは似たようなもんだったのに、言うようになったなあ…」

かかとをさするようにしながら、よろよろとこちらに歩み寄る。ほんとうに、相変わらずだ。見た目も、危なっかしいところも、何もかにも。 なんだかあんまりにも変化がなさすぎて、笑えてくる。わたしは、ディ−ノ兄さんに気づかれないように、とこっそり笑うつもりだったのに、無理そうだ。 あっはっは、と、お腹を抱えて笑う。見かねたディ−ノ兄さんは「おいおい、んなに笑うことね−だろ」と、注文した珈琲をすすりながら言った。

「ごめんなさい…なんだかおかしくって…。あら、兄さんブラックが飲めるようになったのね」
「ん?ああ、最近な。それまでは微糖で訓練してたんだけどな…おい、あんまり笑うとこぼすぞ」
「ふふっ…大丈夫よ。あ、ありがとう。お砂糖はいいわ」

ウェイトレスにひと言言って、スプ−ンで珈琲をかき混ぜる。ウェイトレスはかしこまりました、と言ってテ−ブルを去った。 そんなやりとりを見ていたらしいディ−ノ兄さんは「お前もブラック、飲めるようになったのか」と尋ねて来た。 だからわたしは「ええ、二年くらいまえにね」と、嫌味っぽく言ってやった。すると彼はやはり顔をしかめて「…そうかよ」と言った。

「今回はわたしの勝ちね、兄さん」
「勝負した覚えはないぞ−。っとそういや、日本留学の話はどうなったんだよ?」
「え?ああ…あれね、もう一年待ってみようと思って」
「へえ…?そりゃまたなんでだ?」
「単に単位が足りないってだけよ、日本語のね。だからもっと勉強しなくちゃいけなくて」
「どうせお前のことだから、面倒くさがってサボったりしてたんだろ」
「失礼な。出てたわよ!…ちょっとだけ…」

「ほれみろ」ディ−ノ兄さんは少しだけあきれたようにそう言って、飽きたらすぐサボるところはぜんぜん変わってないよな、と笑いながら言った。 わたしは頬を膨らませて、珈琲を一口すする。うん、良い加減。それから、ちらりと兄さんの表情を盗み見る ―― 子供のような、屈託のない笑顔。 良い年したおじさんが、と呟きそうになるのを我慢して、黙々と珈琲をすすった。―― ディーノ兄さんは、何が嬉しくてそんなに笑顔を見せるんだろう。 ただ久しぶりに幼馴染に会えた、それだけなんだろうか。きっとそうだと思うけれど、思ったことが表情に出すぎるのもどうかと思うわよ兄さん。

「兄さん、イタリアにはいつまでいられるの?」
「うん?ああ、それか…俺も、こっちの用事済ませたらすぐ日本に帰るから…」
「そう…そんなに、長くはないのね」
「…ああ。長くて三日ってとこかなあ…ごめんな、
「どうして謝るのよ。仕事なんでしょ?仕方ないわよ…」

ディ−ノ兄さんは少しだけ複雑そうな顔をして「そりゃそうだけど」と言った。それからまた珈琲カップを手にとって、一息に飲み干した。 あ−あ、またこぼしちゃってる。わたしはディ−ノ兄さんの様子を見ながら、紙を差し出した。兄さんのことだから、ハンカチも持っていないかもしれないから。 するとディ−ノ兄さんは一瞬だけ驚いたように目を見開いて「さんきゅ」とだけ言って、紙を受け取った。

「…兄さん」
「ん−?どうした、?」
「わたし、大人っぽくなったって思う?」
「唐突だなあ…けどまあ、思うぜ。いっしょにいたころよりずっとな」
「そう…」
「また、ちっさいことで悩んでんのか。そのうちハゲるぞ」
「また日本のジョ−ク言って…まあ、事実なんだけどね…」

ふう、とため息を吐いて残り少なくなった珈琲をすする。それを見たディ−ノ兄さんは「ため息つくと幸せが逃げるぞ」なんてことを、笑顔で言った。 いちいちツッコむのも面倒になって、わたしははいはい、とだけ言っておいた。どんなに小さいことでも、わたしは本気なのに…兄さんのばか。 もう一度ため息をつくと、何を思ったのかディ−ノ兄さんは「そういうのを自分を傷つけてるっていうんだぜ」と言った。はい?

「あなた、マフィアのくせにおかしなこと言うのね」
「それはジョ−クだと思って良いのか…?」
「どっちでも構わないわ。それよりどうしたの?兄さん…なんだか兄さんじゃないみたい」
「そうかあ?俺ぁいたって普通だと思うんだがなあ…」
「でも…そうね、結局は自分を否定してるってことだものね…ありがとう、兄さん」
「お?お−。さてと、そろそろ行くか…も、途中までいっしょにどうだ?」
「ここでいいわ。お昼ごはんいっしょにって誘われてる子がいるの」
「おっ、恋人か何かか?」
「違うわよ、カレッジの友達。ボ−イフレンドはいるけど、恋人はいないわ」

わたしがそう言って肩をすくめると、ディ−ノ兄さんはとっても嬉しそうに笑顔を浮かべて「そっか、んなら良かった」と言って、席を立った。 良かった、って、どういう意味かしら?それを聞こうとわたしも席を立ったけれど「なあ、」っていう、ディ−ノ兄さんの声にさえぎられてしまった。 「なに?」と首をかしげながら、わたしが返事をすると、ディ−ノ兄さんは何処か真面目な顔をして「日本に来るときはぜったい連絡入れろよ」と言った。

「入れるけど…どうしたのよ、怖い顔して?」
「…悪い、なんでもねんだ。じゃあ、またな
「え、ええ…あ、兄さん!」
「んあ?どうした、
「…気をつけてね」
「ああ、分かってるって!も勉強頑張れよ−」

言ってすぐ、ディ−ノ兄さんの「痛ぇっ!」という、痛々しい声が聞こえ、わたしは思わず額に手を添えた。だから気をつけてって言ったのに…ほんとうに、危なっかしいんだから。 けれども兄さんはさっと立ち上がって「大丈夫、大丈夫!」と言って、またあの笑みを浮かべた。ディ−ノ兄さんは、少しだけ変わった。 わたしといっしょにいたころはいつまで経っても起き上がれずにいたのに、いまでは泣きもしないし立ち上がれないわけでもない。少しだけ、たくましくなったみたいだった。 いまなら、少しだけ認めてあげても良いかな ―― そうしたらこの気持ちもまた、少しだけまえに進めるかな。ねえ、ディ−ノ兄さん。

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