吹奏楽部の練習も終わって、わたしは部活仲間のみんなが次々と帰っていくのを見送りながら、グランドピアノのほうを振り返った。 真っ黒の、黒猫みたいな色をした楽器は、その口を小さく開いたまま沈黙している。教室内には、もう誰もいない。 わたし ―― は、持っていたかばんを適当な場所に置いて、その白い鍵盤に触れた。もう何度も触れてきた白と黒の縞々模様。 わたしは少しだけ深呼吸をして、いちばんすきな曲を弾いた ―― カノン。まだ練習中の曲で、最期までは弾けないけど、好きな曲。 運命もすきだけれど、わたしにはまだ難しいみたいで、やっぱりこれも最期まで弾けないままになっている。 ああ ―― やっぱり、ピアノ弾いてるときがいちばん幸せだな。何より、落ち着くし何も考えずにすむから。ひとりだけの時間を満喫出来る、唯一の瞬間。

「 ―― ふう。いるんでしょう?誰もいないから、出て来ても平気だよ」
「おや、見つかってしまいましたか…もう少し、あなたの演奏を聞いていたかったのですが」

鍵盤からそっと指を離し、存在を感じる方向へと視線を向ける。音楽室の隅、その暗がりから感じた気配の正体は少年、だった。 見間違えれば青年ともとれないこともない、独特の雰囲気があるその男の子を見ながら、わたしは「二年A組、」と静かに名乗った。 すると彼はわずかに笑みを浮かべて「僕は六道骸です、」と答えた。初対面の男の子にいきなり名前で呼ばれるのは、やっぱり良い気分じゃない。 そんな思いが伝わったんだろう、わずかに眉を潜めたわたしに向かって、六道骸と名乗った彼は「すみません、さん」と訂正した。

「ずっとまえから通ってた?」
「ええ、あなたの奏でる音色があまりにも素晴らしかったので」

お世辞が上手なんだね、とわたしが笑うと六道くんは「お世辞なんかじゃありませんよ、僕はお世辞は言いません」と少しだけ真面目な顔でそう言った。 その言葉を聞いてわたしはうそだ、となんとなく思った。だって、いかにもお世辞が上手そうな顔をしているんだもの。その言葉を信じろというほうが難しい。 六道くんはわたしの考えならお見通しだと言わんばかりに「好きなように解釈していただいて構いませんけどね」と含み笑いを浮かべた。なんか、悔しい。

「しかし、良く分かりましたね。僕がずっとまえから通っていると。
 いま分かっただけでも十分すごいことなのに…何かタネがあるとしか思えませんね」
「…知りたい?」

何気なく聞いたわたしの問いに、六道くんはそうですね、と言い腕を組んで壁にもたれ掛かった。教えてあげても構わないけれど、ただ教えるだけじゃつまらない。 わたしは少しだけ思案した。不意に、面白いことを思いついて、六道くんに「教える代わりに、六道くんのこと教えて」と提案した。 すると彼は驚いたのか目を見開いて、けれどもすぐにこの状況を楽しむかのような笑顔を浮かべて「交換条件ですか…良いですよ」と言った。 暇つぶしくらいにはなるでしょう、なんていう言葉が聞こえそう。

「で、は僕の何が知りたいんですか?」
「ん−と…知りたいことはいろいろあるけど…いまの演奏、どうだった?」
「どう、というのは?感想のことですか?」

わたしがうん、と言う代わりに頷くと六道くんは「そうですね、とてもよかったと思いますよ。まえより格段に上手くなっていますし、の感情がこもっていて、聞いていてとても心地よかったです」と一息に言ってしまった。わたしは素直に嬉しくなってお礼の笑顔つきで「ありがとう」と言った。 それを見た六道くんは「いえ、お礼を言わなければならないのは僕のほうですよ」と、おかしなことを言い出した。

の演奏に、いつの間にか救われていました…たくさん。
 の曲を聴くと、不思議と優しくなれる気がするんです…ありがとうございます」
「ろ、六道くん!わたし、そんな大層なことしてないよ!ただピアノ弾いてただけで」
「ええ。ですがその演奏に安らぎを感じたのも確かなんです。あの、

不意に、声のト−ンが低くなったような気がして、気がつくと六道くんの顔が近くにあって、それになんだか手が熱い。 手のほうを見下ろすと、わたしの手はいつの間にか六道くんに握られていて、道理で熱いはずだ、とわたしは妙に冷静にそう思った。 しばらくの沈黙のあと、六道くんは「僕のことも呼びつけで構いませんから、なまえで呼んでも良いですか」なんてことを言い出した。 これは、さっきこそ六道くんが言った交換条件、みたいなもの。わたしは少しだけ視線を泳がせて、う−んと唸った。手は、相変わらず離れてくれない。 わたしは時計を仰いで、四時半、と時間を確認して再度握られている手を見下ろした ―― 妥協しなきゃ、帰してくれなさそうだ。

「うん…分かった。良いよ、六道くん」
「ありがとうございます、。僕のことも骸で構いませんよ」
「骸…って、なんだか呼びにくいんだもん」
「くふふ、それもそうかもしれませんね。ですが条件ですから慣れてください。また来ますね。も気をつけて帰ってください…では」
「え、…あっ、の!」

六道く…じゃなかった、骸さんはそう言うなりわたしの手の甲に軽くキスをして、これまたさわやかに笑顔を浮かべた。 そうしてわたしの言葉が言い終わるよりもまえに、音楽室の窓からすっと姿を消した ―― その先には、きれいなオレンジと青のグラデ−ションの浮かんだ空があった。 その空と見比べるように、交互に手の甲を見つめる。そうするたびにとくん、とくん、一秒ずつ早くなっていく鼓動を感じながら、わたしは大きく息を吸い込んだ。


恋するカノン