酷く疲れたとき。くじけそうになったとき。迷ったあのとき。思い返せばいつも、あの歌が聞こえていた。

「…本、山本!」
「んあ?なんだ、呼んだか?」
「なんだじゃね−よ。ぼけっとしてね−で、
 さっさと片付け済ませちまおうぜ!おまえも早く帰りたいだろ?」
「あ−…まぁ、そうだな」
「だったら手を動かせよ−終わらないだろ」

膨れる同級生を見つめ、山本は苦笑いを浮かべてああ、そうだなと言葉を返した。誰も、自分が悩んでいることなんて気づきもしない。 いや、気づこうともしない、のほうが正しいのかもしれない。みんなが見ているのは表面上の俺だけであって ―― やめよう。余計虚しくなるだけだ。 山本は脳裏に浮かんだ嫌な考えとともに暑さを振り払うように首を振り、ふと屋上を見上げた。あの子の姿は、まだ見えない。

「なに期待してんだろ−な…俺は。
 あいつじゃねぇけど、さっさと片付けるか…ほんとに遅くなっちまうし」

どうして、一瞬でもあの歌を聞きたいと思ってしまったんだろう。あの歌がこの沈んだ心を晴らしてくれるかもしれないとでも思ったのだろうか? そんなことを考えてしまうあたり、周囲の人間が言うように、やはり自分は天然なのかもしれない。いや、いまはそんなことはどうでも良い。 山本が首を振り、足元に落ちていたボ−ルを拾おうと手を伸ばすと、同じ野球部員の一人が声を上げた。

「あ…歌が聞こえる」
「え?」
「耳を澄ませて聞いてみろよ…聞こえるだろ?」

同級生の部活仲間たちがそう話していると、かすかに、あの歌声が聞こえた。ああ ―― どうして、聞きたいと思う時に歌ってくれるんだろう。 決して自分のためではないと分かりきっていたのに、心の隅に浮かんだ淡い期待はどうしてもかき消すことが出来なかった。それほどに、嬉しかったんだ。

「けどすっごいちっちゃい声だったな−」
「声も切れ切れだったし…もしかしたら練習中なのかもな」
「だな。秘密特訓っつ−のかな、分かんね−けど…とにかく片付けちまおうぜ!」
「お?お−、そうだったな」

仲間の一人はまだ聞きたそうにしていたが、もう一人の同級生に促されて駆け出す。恐らくは、倉庫へ道具を取りに行ったのかもしれない。 山本は深呼吸をひとつし、よし、と意気込んで周囲に散らばったボ−ルを集め始めた。これでまた、頑張れる。なんだか少し、元気が出たみたいだった。

「山本、急にやる気になったな」
「え?あ−ほんとだな。最近元気なかったみたいだったし…良かったな」
「…ああ」

振り返った仲間たちがそんなことを話していたことにも気づかずに、山本は休むことなくひたすら手を動かしていた。

「お疲れ様でした−!」
「お疲れ。遅いし、気をつけて帰れよ−」
「はい。ありがとうございました!」

部員たちの号令を最後に、顧問はそれだけ言って部室を出て行く。続いて、部員たちのざわめきが分室内に広がる。

「そういや山本。あの歌声の持ち主、突き止めたんだって?」
「え?いや?まだだけど…どうしてそう思うんだ?」
「え?違うのか?クラスの女子がそんな噂してたんだ。
 相手は合唱部の女の子らしいって、みんな話してたぜ。なんか嫌な感じだな」
「…そうだったのか…」
「山本?何か思い当たる節でもあるのか?」
「いや、別に。俺帰るわ。じゃあな」
「お?お−、お疲れ!気をつけて帰れよ−」

野球部員のそんな声に背中を押されて、山本は片手を降る。そして部室を出て、校庭まで来たあたりでもう一度屋上を振り返る。

「まさか…な。想像したくね−けど…一応、確かめてみるか…」

わずかに胸に奔った冷たい風をかき消すように、深呼吸する。あの時の歌声を想像しないように、耳に蓋をしながら。 見上げた夕焼けは、いつもより何処となく寂しく感じた。


山本 カナリアが息絶える瞬間の旋律
070809