きりりと冷える空気 ―――― まさにそんな表現が似合うほど、あたりの空気は冷え切っていた。季節は冬。いまは買い物の帰りで、途中の執事 ―――― 山本発っての希望で小ぢんまりとした、いわゆる庶民の遊び場である公園に来ている。そばにはこれまたちいさな川が流れていて、あたりにはぽつんぽつんと葉のない樹木が経立っているだけだ。はかじかんだ手のひらに息を吐きかけるようにしながら、寒空を一瞥した。淡い日の光に照らされてキラリと光った腕時計は、午後16時を指している。間もなく日没で、空気は一段と冷えて行くと言うのに、どうして執事の彼、山本は「すこし、付き合ってくれませんか?」なんて言ったのだろう。その張本人はと言うと、執事の正装である黒いス−ツを脱いで、準備運動をしている。何かが始まる様子はなく、は冷たいベンチに腰を下ろした。


「 あ ―――― すみません、冷たかったでしょう 」
「 ふふ、これくらい平気ですよ。それくらいで怒れるほど、わたしも子どもじゃありません 」
「 様…すみません、俺がわがままを言ったばかりに… 」
「 山本?そんな顔をしないで。それならどうして、わたしをここへ誘ったんです? 」
「 様とキャッチボ−ルでもしたいなあ…なんて思ったからです。迷惑でしたか? 」
「 山本。わたしがノ−と言わないことを知っていてそんなふうに尋ねるのは、卑怯ですよ。
  そんなに山本は、わたしにノ−と言わせたいのですか?それとも、そんなにわたしのことがお嫌いだとか? 」
「 ハハッ…ばれちゃいましたか。嫌いだなんてとんでもありません!お嬢様こそ、ご自分を卑下なさるなんて性分に合いませんよ? 」
「 ふふ…言うようになりましたね、山本。久しぶりの外出です、たまには身体を動かすことも悪くないでしょう 」


はそう言ってコ−トを脱ぎ、山本と適当な距離を置いて差し出されていたグロ−ブをはめた。使い古されたそれはどこかゴツゴツしていて、慣れない違和感に眉間にしわを寄せる。「ハハッ、お嬢様には似合いませんね」「どういう意味ですか、山本。わたしは根っからのインドア派だと、そう言いたいようですね?」「以前様の弓道着姿を拝見しましたが、思わず比較してしまったんです」「同じ運動部でも、ずいぶん印象が違うんですね…行きますよ山本」「はい、いつでも」声の直後、シュッと言う風を切る音とともに、瞬時に向かい側のミットにボ−ルの納まる音がした。どうしてだか、こんなことをしているとそんなに遠くない昔の出来事が懐かしくなった。


「 様?ボ−ルが… 」
「 え?ああごめんなさい、すこし昔のことを思い出していたから…取って来ますね 」
「 昔のこと…?ってなんだか、様がそんなふうに言われるとお年寄りみたいですね 」
「 山本 」
「 ハハッ、すみません冗談です冗談。そんな顔をしないでください、折角の愛らしいお顔がもったいないです 」


そんなのはただの社交辞令だ、と言い返してやりたくなったが、はグッとその言葉を飲み込んだ。なにを、これくらいのことでムキになることがあるのか。そんなお世辞はいままで嫌と言うほど聴いて来た。山本にまで心にもないお世辞を言われることが嫌だと、そんなふうに思っている自分がいることを認めたくなかったのだ。山本は執事で、自分は令嬢。それ以上もそれ以外も、求めてはいけないということくらい、分かっている。それなのに、あふれる思いは自分ではどうすることも出来なくて ―――― は手のひらに握ったボ−ルをギュッと強く握りしめた。「様?大丈夫ですか?」「あ…大丈夫です、お待たせしてすみません山本。行きますよ−!」「はいっ」身動きのない自分が心配になったのだろう、山本がそんなふうに声をかけてくれる。そんな、他愛のないひとつひとつの出来事に、心が揺れる。揺り起こされる。


「 様…やはり顔色が優れませんね。すこしベンチで休みましょう、今度はちゃんと温かくしておきますね 」
「 山本…ありがとうございます。ではわたしはその間、何か温かいものを買っておきましょう 」
「 え!あのそんなことは自分が… 」
「 きょうのお礼です、楽にしていてください 」


「お礼を言わなくてはならないのは俺のほうです」山本が腰を低くしたままそう言って、頼りなくほほ笑んだ。もまた笑みを返して、近くにあった自販機にコインを入れカフェオレをふたつ手に取り、また山本のいるベンチに戻って来た。「ありがとうございます、様」「どういたしまして。お父様には黙っていてくださいね?」「旦那様、金銭ごとにはうるさいですからね…かしこまりました」「あら、山本がお父様は小言が多いと言っていたと言っておきますね?」「ちょ…様?それは冗談、ですよね?」「さあどうでしょう?まあ、山本をわたしの執事から外す良い材料にはなりますけどね」「様、そちらのほうがシャレになりませんって…」山本がまた、力なくほほ笑む。ひとしきり笑ったあと、は笑いすぎて流れた涙を拭いて冗談ですよ、と言い含めた。


「 小さいころは良く…お父様やお母さまとボ−ル投げなんかをして遊んでいたものです 」
「 様…旦那様はこのごろ息つくヒマもない様子ですし…奥様もあまりお身体が思わしくないようですしね… 」
「 ええ…だから山本のおかげで、久しぶりに楽しかったです。きょうはほんとうにありがとう 」
「 そんな!先ほども言いましたがわがままを言ったのは俺のほうで…!俺のほうこそ、お礼を言わなくては 」
「 それはお互い様のようですね。このお話は、もうおしまいにしましょう…キリがありません 」
「 はあ…そうですね。あ…様? 」
「 はい? 」


トントンと山本に肩をたたかれ、どうしたのかと指さされた方向を仰いでみれば、ひらひらと粉雪が舞い始めていた。「まあ…!雪ですね!」「ええ、今年の初雪です」「綺麗…こんな光景は久しぶりです、山本!」「…はい」高ぶる声に、瞳を眇める山本。その細く頼りない肩を、そっと引き寄せた ―――― 温かい。「や、山本?いったいなにを、」「すみません、様。もうすこしだけ…」「ふう…仕方ありませんね。きょうだけ、ですよ」「様?言葉のわりには、なんだか嬉しそうですが?」「気のせいです。山本、冗談は顔だけにしてください」「それは…あんまりです…」ふふっと、が笑う。そのたびに白い息が空気を震わせて、また山本の心を揺さぶった。ほんとうはこのまま、強く抱きしめてしまいたかった。だけど、それでも ―――― いまだけは、このままで。


はじまりもおわりもだれもしらない