ミ−ンミンミンミン、晩夏のセミがきょうもいつにもまして賑やかに啼いている。ふと隣にいた執事、山本武にどうしてかしら、ってどことなく尋ねてみたら、彼は「もうすぐ夏が終わるからですよ、セミは夏の間しか生きられないんですから」と言って、一度止めた手を再び動かし始めた。彼はいま、紅茶を入れてくれている。この香りは、アッサムティだろうか。家の令嬢、が夏休みの課題を終わらせるためデスクについてから半日。きょうは特に予定もなかったので、課題を終わらせることに専念しようと試みたのだ。だが現実はそう思うようにいかないもので、夏季休暇に出された課題はまだ半分ほどしか終わっていなかった。 「 ね−、山本− 」 「 だめです、様。こういうものは自分でやらなければ意味がありません 」 「 む−、山本のけち。これで終わらなかったら山本の所為だからねっ 」 「 お好きなように。奥さまも旦那様も、お咎めにはならないと思いますので 」 「 つまんない−!山本ってそんなひとだったかなあ− 」 「 はい、もとからこういう男でした 」 「 またまた−冗談に決まってるのにまともに返すなんて…それも仕事だから? 」 「 そうですね、そういうことにしておいてください 」 「むう…」そう言って膨れるお嬢様を横目に、はあと深いため息を吐く。ほんとうは勉強が早々に終われば、庶民の祭りの気分を味あわせてやろうと思っていたのだけど、この分だと何時間かかっても終わりそうにはない。かといって手伝ってやるつもりは欠片もない。自分の仕事はあくまでお嬢様の身の回りの世話と、護衛だ。照りつける西日を一瞥して、執事は「熱いな」とワイシャツを引き締めていたネクタイを緩めた。それをじいっと見ていたお嬢様と目が合い、執事は「どうかなさいましたか?様」と首をかしげる。すると彼女はぱっと視線をそらせて、「なんでもありませんっ」と言ってまた視線を落とした。息抜きでもしたいのだろうかともう一度首をかしげた執事は、コトッとお嬢様専用のマグカップを置いた。 「 少し休みましょう、集中力も持続しなければ意味はありませんしね 」 「 良いの…? 」 「 ええ、これくらいは必要かと。そう言えば様 」 「 な、なに? 」 「 ? なにを驚いているのか分かりませんが…そう言えばきょう、夏休み最後のお祭りでしたよね 」 「 あっ!庶民のお祭り?神社であるんだよね!なになに?連れてってくれるの? 」 「 課題が終わり次第、そうしようと思っていたのですが…この分だと無理そうですね 」 「 な!待って待って、山本!わたしがんばるから、お祭り行こう!いっしょにっ! 」 「 はあ…じゃあこれからみっちり夕方の六時まで、片付けてくださいね。 旅行中の奥様と旦那様にはわたしから連絡を入れておきますので…言っておきますが、逃亡は厳禁ですよ 」 「 分かってるよ−、わたし一度ああいう庶民のお祭りに行ってみたかったもの!がんばるわ! 」 そう言って意気込むお嬢様を見つめ、自然と表情が緩む。どうやら自分が企てていた計画は無駄ではなかったようだと胸中でつぶやき、メイドに浴衣の用意をさせるとお嬢様の仕事部屋がある執務室へ足を運び、彼女の両親に連絡を入れるため受話器を取った。そうして約束の午後6時、山本はお嬢様の潜在能力に驚かされることになる。「えへへ−、見て見て山本!課題終わったよ!」「それはそれは…ですが様、この量の課題を短時間で終わらせることが出来るなら、どうしてもっと早くにやらなかったんです?」「うっ…」「あれだけ時間があったんですから、なにもいま慌てなくても良かったはずですし」「ああもうわざとらしいなあ山本は−!着替えてくるッ」「玄関のところで車を用意してお待ちしています」ずんずんと、令嬢らしからぬ歩き方で部屋を出て行くお嬢様の背中を微笑ましく見送りながら、山本はドライバ−に声をかけた。 「 わあ−すっごい人だかり! 」 「 様、俺から離れないでくださいね? 」 「 どうして? 」 「 この人ごみです、背の小さい様を見つけるのは大変なんですよ 」 「 なにそれ− 」 「 そのままの意味です。さあ、行きますよ 」 そう言うと山本はすっと手を伸ばして、を見つめる。迷わないように、とのことなんだろう。は多少ドキドキしながらも、彼のその手をとって人ごみの中を歩き始めた。りんご飴、綿菓子、ラムネ。金魚すくいにヨ−ヨ−、射撃。いろいろ見回っての元気がなくなって来たころ、山本は不意に足を止めて彼女を振り返った。「様?少し疲れましたか?」「山本…うん、こんな人ごみあるいたことなかったから…」「ではそこの河原にあるベンチで待っていてください、なにか飲み物を買って来ます」「や、」山本、待って。そう言おうと思っていたよりも早く、山本は颯爽と人ごみの中に消えてしまった。ひとりになることがこんなに不安だなんて、このときはじめて知った。いつも安心していられるのは山本が身を持って自分を守ってくれているからだと、改めてそんなふうに感じた。 「 山本−… 」 「 ね−ね−彼女、ひとり? 」 「 えっ 」 「 結構可愛いじゃん。な−な−、良かったら俺らといっしょに祭り楽しもうぜ 」 「 な、なんですかあなたたちは… 」 「 なにって、通りすがりのもんだけど?あああんた、もしかしてナンパってはじめて? 」 「 な…ナンパ??って手を離してくださいっ 」 「 大丈夫だって、悪いようにはしないから−、なっ? 」 「 嫌です!離してくださいっ…山本、山本っ…! 」 怖い…!が次の手段に困っていると不意に頭上から影がさし、「離せって言ってんだろ。こいつは俺の連れだ、手を出したらただじゃおかね−からな」と言う、迫力のある声が聞こえて、はぱっと声のするほうを振り返った。そこにはやはり、ジュ−スを手に持ったの執事、山本が立っていた。「チッ、覚えてろッ」「おい行くぞ」「じゃあなお嬢さん」気迫負けしたのか、男たちは口々にそう言ってパタパタと駆け出して行った。直後、力が抜けては地面に座り込んだ。「おいっ、大丈夫か?どこかけがでも、」「だ、大丈夫…安心して力が抜けただけ…良かったあ山本…来てくれた…」ほっと、心底安堵の笑みを浮かべるお嬢様の表情に、なぜだかドキリと胸が高鳴る。 「 あ、当り前じゃないですか。俺はあなたの執事なんですから 」 「 うん…でももし来てくれなかったらって思ったら…すごく不安になっちゃって 」 「 … 」 「 ばかだねわたし。山本が来てくれないなんて、ないのに 」 「 …すみません 」 「 え、え?どうして山本が謝るのっ 」 「 自分がそばにいながら…様を不安にさせてしまうなんて…執事として失格です 」 「 そ!そんなことないよっ!確かに怖かったけど、でも山本はちゃんと守ってくれたもの! 」 「 様…、無事で、良かった 」 「 え…、わっ山本…!だ、だめだよこんなっ 」 こんな、こと。次の言葉が、恥ずかしさのあまり出てこない。頭の中ではだめだって分かっているのに、抱きしめられているこの状況が嬉しいだなんて思っている自分がいる。「あの、山本、」「?」「そろそろ、苦しいから離してほしいなあ…なんて…」「! す、すみませんっ…なにやってんだ、俺っ」顔を真っ赤にして、ガシガシと頭を掻き毟る。「あの…遅くなりましたけど、ジュ−スです」「ありがとうございます」「じゃあ、花火を見て帰りますか」「花火?」「はい。もうすぐで花火があがりますよ。まあ見てみれば分かります」山本はそう言って、ニカッと笑うとジュ−スを一気に飲み干した。しばらくその動作を見つめていただったが、山本の「おっ、始まるみて−だな」という声に彼とおなじように漆黒の夜空を仰いだ。ドンドンドン、まるで地響きでも鳴っているんじゃないかって思うくらい大きな音が、周囲に鳴り響く。しばらくその大輪に見入っていた山本がこちらを振り返って、やわらかくほほ笑んだ。「そう言えば様、言い忘れていましたけど」「え?」「その浴衣、とてもお似合いですよ」「そ…かな?ありが、とう山本」ドキドキと、胸が高鳴ってうるさい。ありがとうとが言うと、執事の山本は心底嬉しそうに笑みを浮かべて「こちらこそ」と言ってくれた。ふたりの夏は、もうすぐ終わろうとしている。 夢にして現 |