きょうは、2月14日。世間一般、と言うより世界に通用する常識で考えてみれば、バレンタインとか言う日らしい。…お嬢様には申し訳ないが、 正直なところ自分にはあんまり興味がない。なにより自分はお嬢様をお守りする執事、それ以外の何者でもないからだ。お嬢様をお守りする、ただそれだけの存在だからだ。 キッチンで鼻歌を歌っているお嬢様は、時折「お父様と−、お母様と−、山本と−」なんて名前をあげながらチョコレ−トをつくっている。おそらく、あげるひとの名前だろうと言うことは、 きょうという日にまったく興味のない俺でさえ安易に分かった。「お言葉ですが」きょう何度目になるか分からないその言葉を口にすると、お嬢様は可愛らしく頬を膨らませて、「山本は黙っていて」というのだ。 「…はぁ−」 自然と、重たいため息が吐き出される。これも、一度に限ったことじゃあないから、もうなんとも思わなくなってきた。言いたいことは、最初に言ってあるから、それを踏まえたうえでの、いまの発言なのだろう。お嬢様だって、それが分からないほど頭の悪い方ではない。それは、いつも近くでお嬢様を見てきた自分がいちばん良く知っている。色彩兼備、まさにそんなお言葉が似合うご令嬢だとつくづく思っていたのだから。 運動神経こそ、それほど良いとは言えないものの、頭脳戦でお嬢様にかなう者はいないだろうと断言出来る。それだけの頭脳を持ったお嬢様なのだ。それは分かっている。 「でもなあ」 再びお嬢様を見つめて、ため息が出る。負けず嫌いなのが、たまに傷だと言うのも、うそに変えがたい事実。だから、いまのお嬢様に何を言っても無駄だと言うことも、もちろん承知している。時々、お嬢様の「あいたっ」「熱−い!」などと言った悲痛な声が聞こえるが、どうにも加勢する気になれない。菓子作りがあまり得意じゃない・って言うのもひとつの理由だけれど、あれが完成する時間を延ばしたいと言うのがほんとうのところだった。 「 … 」 そうは言っても、ただじいっと見ているだけと言うのもおもしろくない。時計を見てみれば、午後三時をすぎていて、かれこれ三時間以上戦っているんだなあ・なんて思うと、またひとつため息がもれる。 さすがに見かねた山本は、おおげさにため息を吐いて、お嬢様が持っていたボ−ルを手に取った。あとは、これを型に入れるだけのようだ。よくまあ、これだけの作業にあれだけの時間を費やせたものだと感心する。 「山本…?」不意に自分を振り返ったお嬢様は、見るからに訝しい顔をしている。「あとは型に入れて冷やすだけです、それくらいお手伝いしますよ」俺はあてつけのようにそう言って、おたまを手にする。 「手伝ってくれるの?あんなに嫌そうだったのに」 「三時間もかかってるんです、さすがに加勢したくもなります。 それでなくても、お嬢様は不器用なんですから…いい加減、手伝わないわけにはいきませんよ」 「なんか、馬鹿にされてるような気しかしないけど…ありがとう山本」 「恐れ入ります」山本は事務的にそう言って、満面の笑みを浮かべるお嬢様の横顔をちらりと盗み見る。ほんとうに、嬉しそうな笑顔を浮かべている。ほんとうに子供なんだな・と思う反面、 こんなにも無邪気な笑みを浮かべるお嬢様の表情を見たことはあまりないな・とも思った。いつも両親に会えない寂しさから沈みがちだったけれども、唯一お料理の練習をされているときはほんとうに楽しそうに笑う。 このとき自分は、はっきりと分かった。この笑顔をお守りするために、自分はお嬢様にお仕えするのだと。お嬢様を支える唯一の存在として、ここにいるのだと。 「出来た−! ありがとう、山本のおかげだよ」 「どういたしまして。われわれも休憩しましょう、様」 「うん。 片付けてからね」 料理の練習を終えたときの、決まり文句。だから山本は「はいはい」と言ってお嬢様の手伝いをする。ずっと昔、奥様に「片付けまでがお料理なのよ」と教わったことが深く影響しているらしい。 そういうところは律儀なんだなあ・とお嬢様を認めてみたりする。別段、彼女を見下すようなことは思っていないけれど、仮にも他人。なによりお嬢様はまだまだ子供だ。それなりに評価させてもらうつもりではいたが、 まさかこんな短期間で成長しているとは思ってもみなかった。日常でも時々、お嬢様はやっぱり令嬢なんだな・なんて思うこともたびたびある。そういうのも、お嬢様に仕える執事として少なからず必要なことだと思う。 「ふう… 疲れたあ」リビングで大きく背伸びをするお嬢様にお茶を入れながら「ご苦労様です」とねぎらいの言葉をかける。すると彼女はほんの少し困ったように笑って、「うん」と言った。 言葉に困ったときの、お嬢様の癖だ。それに気づいたのはほんとうに最近だけれど、気づいたときは年相応なところもあるものだ・と嬉しくなったのをいまでも覚えている。 「あとどれくらいかなあ…」 「半日もすれば固まると思いますよ?と言うことは、夜ですね。間に合いそうですか」 「ん−、うん。お父様たちが帰ってくるのは、わたしが寝付いてからだから…」 そう言って紅茶をすするお嬢様の横顔はどことなく寂しそうで、なんだか自分までもがそんな気持ちになってしまう。「どうして山本がそんな顔するの?」見られたらしい、お嬢様がちょっと寂しそうに笑っている。だから山本は「…分かりません。 ただ、様がそんなお顔をされていると、わたしもそんなふうに思えてくるんです」と正直に話した。「正直なんだね、山本は」思っていたとおりの言葉が返り、山本は「恐縮です」と言った。 「…とても事務的」呟くように言われたお嬢様の言葉が、寂しそうな笑顔が、心の中に柔らかい棘となって突き刺さる。きっと気づかれたに違いない ―― 自分はそれほど、必要とされていないんだっていうことに。 それはもしかすれば、事実なのかもしれないが同時に、お嬢様をひどく傷つけてしまったに違いない。そう思ったら、ひどく心が痛んだ。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう・と後悔の念ばかりが脳内で行ったり来たりしている。 「ごめんなさい、山本。わたしがまだまだひ弱な子供だから…。 あなたがそう思うのは道理です」 「いえ、あの…! 様、俺はただ、」 「だけれど、あわてることはありません。 これから少しずつ、お互いを認め合えば良いのですから」 「様、あの…ほんとうに、申し訳ありませんでした」 「大丈夫です、あなたのほんとうのお気持ちを知ることが出来て、嬉しかったです」 はそう言って微笑んだけれど、やっぱりどこか寂しそうだった。「チョコ、楽しみですね」そんな明るい言葉でさえ、寂しげに聞こえてしまう。それから、変わりなく夜まですごされたけれど、 自分にとって昼間の出来事はあまりにも衝撃的だった。お嬢様を守らなければならない自分が、彼女を傷つけてしまうなんて。楽しそうにラッピングをされているお嬢様を見つめるたび、ため息が出る。するとお嬢様が振り返り、「じゃあわたし寝るね。これ、山本に…きょうのお礼だよ。どうもありがとう」と言って、丁寧にラッピングされた包みを手渡した。 自分が甘いものは苦手だと言うことを気遣ってか「ビタ−だよ」と笑みを浮かべ、踵を返した。お嬢様にパジャマを手渡し「お休みなさいませ」と、彼女の背中を見送った。 「ほんとうに、律儀だなあ」 そう呟き、リビングのソファに腰掛け包みを開く。同時に、ひらりと白い紙切れが床に落ちた。「手紙…? なんだ?」首をかしげつつ、その小さな紙切れを広げる。 その手紙には「 きょうはありがとう。これからも、よろしくお願いします 」とだけ書かれていた。あのとき、うつむきながら走らせていたペン。その字体が、ほんの少しにじんでいる。 泣いていたのか・といまになって気づいた。思い返してみれば、あのあとのお嬢様の目は少し、腫れていたような気がする。「このことが知れたら、ご婦人に大目玉だな…」そう呟いて、お嬢様が作ってくれたチョコを一口含む。 ビタ−と言っていただけあって、ほんのちょっと苦かった。これがお嬢様の仕返しなのかな・なんて思ったら、自然と笑みがこぼれるのだから不思議だ。とても、不思議でならなかった。 きみという名の花が咲く |