「お嬢様、尾行されてるんで私から離れないでくださいね。」 山本はまるで、雨が降りそうだから傘をさしますね、とでも言うように、いつもの声色いつもの笑顔ででもちょっと明後日の方を向いて言ったので私も「ああはい、わかりました」とちょっと明後日の方を向いて返事をしそうになりました。でもすぐに山本の言葉は普通ではないと、つまり緊急事態なのであると気付いたので慌てふためきそうになったのですが、いけない。いけないのです、慌てては。焦っては。一時でも隙があれば敵の気を引きます。極力、相手には「自分達に気付かれた」ということを気付かれてはいけないので、私たちは相手に気付いたことを気付かせてはなりません。 あーもうぐっちゃぐちゃでわからないのですが!とにかく、私は普通にしなくちゃいけないのでした。例えばショーウィンドウの中のウエディングケーキを微笑ましそうに見つめる。例えば雨が降りそうだわ、と空を見上げる。私は前者を実行しました。空を見上げたらそのまま首が背後の追跡者を追いそうで怖かったのです。私は野原で一匹になった白ウサギのように臆病だったのでした。透明な一枚板の向こうにはきらびやかなケーキ。きっとどこかの幸せな男のひとと女のひともいつか初めての共同作業という 、実際は何度めかの共同作業としてこのケーキにナイフを入れるのでしょう。引き出物を二人で選ぶのはすでに共同作業であるはずだもの。でも、やっぱり、私が生まれて数時間でお母様にちゃっかり奪われたキスをファーストキスと呼ばなくて本当に好きな人とのキスをそれと呼ぶように(それと呼ぶことになるように、なればいいなあ。)、本当に大切な儀式を「初めて」とするのが1番ロマンチックで素敵なのかもしれません。なかなかに都合の良い文化です、人間。 「お嬢様、雨が降りそうだから傘さしますねー」 「えっ!」 「あ、ダメっすか?」 「ああ、違う違う!ごめん、お願いします」 私が驚いたのはさっき想像した通り、そのまんまの台詞が左斜め上から雨粒のように降ってきたからでした。山本はよく私の髪を撫でたり服のよれを直したりデザートを作ったりしてくれる骨張った手で黒い傘をさしました。半径だけで私の身体三分の一を覆いそうなくらい大きな傘です。山本はいつも自分は雨に濡れて私に傘を譲るので、毎回「山本も入りなよ」と言います。「入らないの?」と言うと「お嬢様にお仕えする身ですので」なんてマニュアルのような返事をされてて胸がぎゅっとなるので、「入りなよ」と言い切るようになりました。そんな言葉を聞くたびに、私はオジョウサマで山本はシツジなのだなあ、と哀しくなるのです。 黒い傘が私と山本を隠すと、ショーウィンドウに黒い影がうつりました。傘と山本の燕尾服です。そしてさらに、私の背後に6本の黒い足がうつりました。私たちのではないことは確かです。私は生足ですし、山本の足は映る位置にありません。追跡者、監視者。敵です。山本は気付いているでしょう。私の左少し後ろに立ってショーウィンドウを「かわいらしいですねー!」とにこにこ覗きながらさりげなく言いました。雨が傘を叩きます。そらからビーズを落としたかのようです。ばらばらばら、と弾け始めた音が私の身体を強張らせました。雨は次第に強くなり、すぐにバケツどころかプールをひっくり返したような雨へと変わりました。私と山本を敵から守るように水の壁となったようです。 「少なくとも3人以上、武器所持。交戦します。」 「…ん。」 私は頷きました。「少なくとも3人以上」というのは、今見えているのは3人、陰に隠れている、もしくは敵の応援より増える可能性が無きにしもあらずという意味でした。もちろん傘で隠れているのであちらには見えるはずがないのですが、意図せず動作は小さくなりました。お屋敷まではまだ距離があるし、表通りに広まれば一般の方への被害が心配です。やはりこの路地裏ですべて片付けるのが妥当なのでしょう。しかし何度経験しても慣れることはありません。「山本…」アスファルトに染み込む雨粒のように今にも消えてしまいそうな声で呟くと、山本は傘を持っていない左手で私の右手を取ってその指先と甲に2度軽く口付けし、真っすぐな瞳で私を見ました。騎士が姫に忠誠を誓うような、まさにそれでした。 「大丈夫です。お嬢様は必ず俺がお護りしますから。」 はい、と私が返事をすると同時に山本は、さっきよりいくらか軽くなった曇天に黒い傘を投げ上げました。きっと敵はそれに気をとられた隙に山本にめっためたにされてしまうんでしょう。ちょっとかわいそうな気がします。動揺して射程がくるったのか、あちらさんのカルカノという種の銃の弾が私のすぐ横を突っ切ってショーウィンドウに波紋を作りました。ぴしり、と音を立てて。あーあ。可愛そうに、この人たちの未来は絶望的です。 「山本、」 「はい?」 ほどほどに手加減は…、ま、いっか。 「…帰ったらケーキ食べたいなあー。」 「かしこまりました。」 モラトリアム・オブ・ザ・ケーキ (雨はもう降りません) |