様、ちゃんと勉強してください」

執事 ―― 山本武はそう言って、面倒くさそうに頬杖をついた。面倒くさいのはわたしのほうなんですけど!って言い返してやりたいけれど、 仮にもわたしは令嬢だ。それに、忙しい合間を縫って勉強まで教えてくれている彼の執事・山本に文句まで聞かせるなんてプライドが許さない。 ともかく、勉強しなくてはならない。それなのにどうして勉強していないのかというと、聞かれるまでもなくはかどらないからだ。 令嬢、なんて言われ方をすると、すごく頭が良くてなんでも手に入って、自由奔放な生活をしているように思われがちだが、そんなことはない。

「なかなか大変なんですよね、令嬢も」
「何ぶつぶつ言ってんですか。旦那様に言いつけますよ」
「脅す気ですか!執事の癖に…!」
「…子供ですね、お嬢様」
「あなただって十分子供だと思いますけれどね。あと敬語はいらないって言ったはずですが?」
「そう言うわけにはいきませんよ。決まりごとのようなものです」
「…たけし」
「次言ったらただじゃおきませんからね、様」

背にかけている刀の鞘に触れ、表情を鬼と変える山本を見やり、反抗する術を持たないわたしは否応なく「分かりました!まじめにします!」と言って課題を見下ろした。 …正しくは睨み返した、だけれど。そろそろほんとうに課題を終わらせないと、期日のあしたまで間に合わない。ペンを持って「えっと…」と呟いていると、 山本は腰を上げて「ちょっと台所借ります」とだけ言い残し、キッチンへと姿を消してしまった。どうしたんだろう、と思って首をかしげていると、山本はものの数分で戻って来た。

「少し休憩しましょう。良く考えたら三時間以上にらめっこしてますからね」
「え…良いんですか?」
「たまにはひと息入れることも重要です。また集中出来るようになりますしね」
「…ありがとうございます」

言って、テ−ブルに腰掛ける。自分の向かい側で飲み物を注いでくれている山本は「どういたしまして」と言ってミルクティを入れてくれた。 テ−ブルの中央にはおいしそうなクッキ−があって、わたしはそのうちのひとつを手にとって口の中に放り込んだ。甘すぎない甘さが、口内に広がる。 「あとは山本が敬語使わないでくれたら最高なんですけどね…」呟くように言って、ちらりと山本を見上げる。案の定、すごい顔をした山本がいて、 わたしは「聞かなかったことにしてください」と言ってミルクティをすすった。

「いくら年齢が近いからと言ってさすがにそれは無理でしょう」
「だって…やっぱり見てみたいですよ。普段の山本さん」
「普段の…?そんなに興味あるんですか?たいして変わらないですよ」
「そんなことないですよ。普段一人称はちゃんと俺、なんでしょう?」
「…まぁ、そうですね」
「ね、お父様には黙っておきますから、ちょっとの間普段の山本さんやってみてくれません?」
「う、ぇ?」
「一生のお願いです!勉強、がんばりますから!」

ぱん、と両手を合わせてこっそりと山本を見上げる。観念したのか山本は後頭部をかきながら「仕方、ありませんね…」と呟いた。 自分からは無理だろうと思って、わたしは「山本さんて、野球がすきなんですよね?」という話題を持ち出してみた。それで返ってきた返事が「あぁ、まぁ」。 神経がキレそうになるのを我慢しながら、わたしはそれじゃあ…と思いをめぐらせた。「チャッチボ−ルしません?」これが数秒考えた末の、結論だった。 「キャッチボ−ル?」目をぱちくりさせる山本を見てニッコリと微笑む。山本を中庭に連れ出し、ボールとグローブを手渡した。何がなんだか分からない様子の山本は、ぼんやりしたままだ。

「一度やってみたかったんですよ、こういうの」
「言ってくれりゃあいつでも相手してやんのに…、あ」
「ふふ、戻ってきましたね。誘導作戦、大成功です!」
「あ−あ、乗せられちまったなあこりゃ。責任は持たないからなー」

言いつつ、ボ−ルを投げる。「分かってますよ」言ってから、ボ−ルを山本に投げ返す。でも ―― 彼と同級生の子がほんとうにうらやましい。 こんなことお願いしなくても相手してくれるんだろうし、ありのままの山本を見ていられる。こんなふうにしてしまった原因はきっと自分たちにあるんだろうけれど、 彼も言うようにそこは恐らく貴族として " 曲げてはいけないところ " だ。気兼ねなく接することが出来たらそれがいちばん理想なんだろうけど、周囲がそれを許さない。 はじめてだった ―― こんなふうに。同年代に近い子で、ゆるぎなく接してくれるひと。飾らないでいて、真っ直ぐなひと。そして何より、男のひと。

「わたし、決めました」
「何をだ?」
「わたしたちみたいな人間に敬語を使わせないようにすることです」
「え…?はい?」
「何を言っても聞きません。それがお互いの絆を深めることにもなるんですから」
「意味が分からないんだけど?」
「わたしたちが普通にお話出来る日が来ると良いですねっていうお話です」
「…無理でしょう、そんなの」
「やってみせますよ。どんなに時間がかかっても!だってわたしは、年相応にあなたとお話したいのですから」
「…年相応に、ねぇ」

まぁがんばってください。山本は最後にそう締めくくって、ボ−ルをもとの場所に戻した。夢の時間は、もう終わりのようだ。 それがほんとうだと思わせるかのように、四時の鐘の音が屋敷中に響いた。まえを歩く山本を見ながら、「ほんとう、ですから」わたしはそう呟いた。 おんなじ人間なのに、階級の所為で「自分らしさ」までもが封じられなきゃならないなんて、そんなの変だ。人柄のために壁を作らなきゃならなかったのなら、 わたしはその壁を壊してみせる。そのためには、少しでもいろいろなものを吸収する必要があるのだろう。わたしは顔を上げて、山本に呼びかけた。


「山本さん」
「なんでしょう、お嬢様」
「きょうはありがとうございました。もう少しお付き合いください」
「…仰せのままに」

そう言って山本は膝をつき、一礼した。もうあの「彼」が見納めなのだと思うと寂しく思えたけれど、それもしばらくの間の辛抱だ。 わたしはそう思うことにして、自室に戻った。破壊への一歩は、まだ始まったばかりだ。

トワイライトは幻想でまたたく