「 ――――― 孝介! 」 「 ああ?おう、んだよ 」 自分とおなじ西浦高校に通うこの女、泉は俺の姉だ。実質的には同年代なのだが、微妙にのほうが半年分くらいお姉さんなので、戸籍上にもとの続柄は姉になるのだ。まあ自分としては「姉」なんて呼ぶのはなんだか恥ずかしいものがあるので、いまのように呼び捨てにしている。そうすると決まっての「もうっ”お姉ちゃん”だって何度言えばわかるの孝介はっ」と言って年相応に唇をとがらせるのだ。柄にもなくかわいい、だなんて思ってしまった俺ははっとして我に返る。 「 お前。きょうは委員会じゃなかったのかよ 」 「 先生が部活の遠征で留守だったの!だからたまには孝介といっしょに帰ろうと思って!だめ? 」 極めつけの上目遣い。姉ははっきり言ってかわいいと思う。これは自惚れでもなんでもなくて、はじめて会ったときからの率直な印象だ。そしてその印象はいっしょに暮らすようになってからもすこしも揺るがない。篠岡とおなじくらいか、ひょっとしたら彼女を上回るんじゃないかと思わせるほど年相応なかわいさを持った姉を、正直どうしたものかと戸惑っていた。どうしてって、いきなり父親が連れてきた一人娘を姉と思えだなんて、正直無理な話だ。かといっておおっぴらに自分のなかにある不可思議な感情を口にすることもままならない。うまくは言えないが、法律に詳しくない高校生ながらに、その感情にふれてはいけないと心の片隅で感じていた。 「 孝介?どうしたのあんた急に黙り込んだりして。練習で疲れてる? 」 「 うるせ−くらい元気だなは。浮気相手の子どもとは思えねえ 」 「 ―――――― ごめん、 」 言ってしまってから、孝介は重く口をつぐんだ。の表情からみるみる先ほどまでの明るさが消えていく。言ってはいけないことを言ってしまった。両親に口止めされていた言葉。をひどく傷つける言葉。悪いのは父親であって、彼女ではないのだ。「俺も、ごめん」「ううん、誰のせいでもないから平気」は気丈にもほほえんでみせたが、その笑顔は明らかにひきつっていた。重くのしかかる空気に、孝介はどうしたものかと肩を落として前を歩くをみやった。 が泉家にやってきたのは、高校に進学してすぐの、春のことだ。入学式の日、父親に付き添われて申し訳なさそうに俺をみつめていたのを、いまでもしっかりと覚えている。 「 、さんだよ孝介。きょうからお前の姉さんになるひとだ 」 「 は、ちょっとまって。兄貴以外に姉弟がいるなんて聞いてないけど 」 「 お前が知るはずもない。もう何年も昔のことだ…母さんも知っている 」 「 俺と兄貴だけ秘密にされてたってことか 」 「 孝介は察しが良くて助かるな。そのとおりだ、俺たち夫婦とこの子の親子以外には内緒にしていた・・・許されないことだ 」 許されないことと聞いて、孝介はすぐに「父親の不倫」という忌まわしい事実を連想させた。「この子の母親は生まれつき病弱でね、五年前に他界した」「で、ひとりになったこいつがかわいそうに思えて、いまになって引き取ることにしたってか」「黙っていて、悪かった」「母さんは…許したんだな」「この子の母親とは友達同士でね。彼女の願いを聞き入れてくれたんだよ」胸を張って深呼吸する父親が、ひどく窶れているように見えた。 「 願い? 」 「 一度でいいから、死ぬまでに恋をしてみたい、って言ってな 」 「 なんつ−か…俺には途方もなさすぎる話だな 」 「 まあ、ひとをすきになったことがないお前には理解出来んだろうな 」 「 はあ…で?そいつの母親が死んで?こいつが困ってたら助けてやってくれって遺言でもあったのか? 」 ポン。軽く肩をたたかれたかと思うと、父親はしっかりとうなずいて「そのとおりだよ孝介」と声を張り上げた。喧しい。しかし状況は把握できた。残る気がかりはただひとつ。年の離れた兄のことだ。「兄貴は知ってんの?」「ああ。話をしたら近いうちに会いにくるってさ」「友達のためとはいえ二股許した母さんって…すげ−な。で、その母親が悲しまないように仲良くしてやれって?」「ああ、そうしてくれるとうれしいよ。俺も、母さんも、あのひとも」といったか、美人と言うよりはかわいらしい雰囲気のある彼女と顔を見合わせた父親はゆっくりうなずいて、に言った。「俺の息子の孝介だ」「はじめまして。って言います、よろしくお願いします」ちいさく会釈して右手をさしのべる。「ま、程々な感じで頼むよ」そっぽを向いてそういってみれば、は心底うれしそうに笑ってありがとうございます、と満面の笑みを浮かべた。それからもう、一年がたとうとしている。 「 ま、気にすんな。お互い様だ 」 「 孝介優しい!あたしの自慢の弟だよっ 」 「 調子に乗ってほおずりなんかすんじゃねえっ離れろっ 」 「 え−ほめただけなのに 」 は口をとがらせたが、正直ほめられるなんてことあまりなかったから、素直にうれしかった。「うっとうしいくらい明るいな。気まずくなんねえの?」以前そんなことを聞いたことがあったが、はそのときもいまと同じように笑って言ったのだ。「あたしね、ずっとずっとひとりぼっちだったから、どんな境遇だってかまわない。姉弟がいることがすごくすごくうれしいの」そういったの声は、凛としていたのにふるえていた。ひょっとしたら俺は、このときからすでに、の、ことを。 「 のことを…? 」 「 孝介?コンビニ行くんじゃなかったの? 」 「 へ?ああ、行く行く 」 はた、と動作と思考が停止する。の声で我に返って、思い出されるのは父親の「ひとをすきになったことのないお前には理解出来んだろうな」という皮肉めいた言葉だった。同時にやめろやめろ、ともうひとりの自分が警報を鳴らす。それ以上を考えるな、それ以上を望むなと。「望む・・・?」なにを考えているんだ、と俺はまた強く首を振って乱暴に自転車のペダルを踏み込んだ。寒さが祟って、ジン、とした痛みが足をしびれさせた。 そうして、年末年始でにぎわう世間を横目に、決定的ともいえる事件が起きる。 「 さんが、すきです 」 いまではすっかり聞き慣れた人物の名前を耳にして、俺の動作は瞬時に固まった。ちょうど、中庭を掃除していたときのことだ。冬休みを間近にしてにぎわう校内にいらだちを覚えながら、俺はその現場を目撃した。が、知らない男に告白されていた。の答えは、イエスかノ−か。しばらく、身動きがとれずにいた。 「ありがとう。あなたのその気持ちは嬉しいけど…ごめんなさい」「ほかにすきなやつでもいんの?」「うん」「俺よりすき?」「うん」「…そっか。これで最後にするから、これから僕がすることは見逃してくれないか」が首をかしげつつも首を縦に振った。この男はいったいなにをしようとしているのか。考えるよりも早く、男はの額にふれるだけのキスをした。瞬間、自分のなかにほの暗いものが渦巻いていくのを、感じずにはいられなかった。 「 泉−!なにボケッとしてんだよ!掃除終わったか? 」 「 ―――――― 田島か。オウ、いまからグラウンド行く 」 「 泉、君!早く部活、行こう、よ! 」 「 わかったって。お前らホント似てきたよなあ 」 なんとなくを振り向いてしまった。そこには苦しそうに、表情をゆがめてこちらをみている彼女の姿があった。「孝介お帰り。なに黙ってんの?怖い顔して」「別に」珍しく帰りを待っていた姉を横目に、自室へ戻ろうと足をすすめる。途端に手首を捕まれた。「なに」「怒ってるから、孝介が」「怒ってないって」「じゃあなんで」「なんで」「え?」「なんであんたが泣きそうな顔してんだよ。泣きたいのはこっちなのに」震える声で紡がれたのは、皮肉。情けなくなった。どうしてこんなに苦しいのか。どうしてこんなに惨めな思いをしているのかわからない。相手は身内だ、遠慮することはない。身内の、はずだ。それなのに。 「 わからないんだよ俺だって!なんで身内のお前にこんなにいらいらしてんのか!苦しいのか! 」 「 孝介… 」 「 泣きそうなお前を笑わせられねえって、苦しいんだよ。なんで!なんだよこれ…! 」 「 孝介…それが、ひとをすきってことだよ 」 「 ――――― ひとを、 」 「 わたしを、すきって、ことだよ 」 「 、を…?うそだ、そんな 」 「 ふふ。頭脳派だもんね、孝介は。こんなこと認められないってちゃんとわかってる証拠だよ 」 「でも、感情がそれを許してくれない」がほほえんで、ゆっくりと歩み寄る。家には誰もいないのだろう、静寂だけが支配している。背中に変な汗をかいているのを、嫌でも感じた。だめだだめだ、こんなこと。「わたしね、ずっと前から孝介のこと」「やめろ」「孝介」「聞きたくない。俺は、聞きたくない」「孝介…ごめんね…」苦しませて、ごめん。のか細い声が耳の奥に残響する。そしてとうとう我慢も限界に達したのだろう、すすり泣くの声が聞こえた。いてもたってもいられなくなった。あんなにも笑っていてほしいと願っていたひとが、泣いている。自分のせいで、泣いている。 「 …ごめん 」 「 こ、すけ、? 」 「 ごめん…泣かせたいわけじゃないんだ。ただ、笑っていてほしいだけなのに…難しいなあ 」 「 ごめんね…家族なのに、こんなのひどいよね 」 「 、違うんだ。俺はただ、怖かっただけだ。家族の壁を越えるのが 」 「 こうす、 」 「 が、すきだ。はじめて会ったときから、ずっと 」 「 こ、すけ、くるし 」 力一杯、抱きしめた。いままでの苦しみ、せつなさ、やるせなさをすべて切り捨てるように。「おやじにも礼、言わないとな」「孝介?あんた黒くなってない?」「そうさせたのは、あんただろ」「ちょ、んっ」がちいさく暴れるのを押さえ込むように抱きしめる腕に力を込める。もうすこしでバランスを崩して倒れてしまいそうなところ、絶妙なタイミングでインタ−ホンが鳴った。「ハァ、ハァ」「兄貴だ」「おに、さん?でなくて良いの?」「良い。楽しみを邪魔したお仕置き。それに、に会って惚れられたりしたらたまったもんじゃねーからな」「っ」「なに、嬉しい?」「馬鹿っ着替えてくるっ」「部屋で待ってるから」に、と笑ってみせれば、耳まで顔を真っ赤にしたの表情。瞬間、妙な歓喜に身体がふるえた。兄が不思議そうに首をかしげて去っていく様子を横目にみながら、とうとう自分は落ちるところまで落ちてしまったらしい、とひとり自嘲の笑みを浮かべた。 少年の覚醒 |