「きょうでこのグラウンドともお別れかあ」燦燦と、やわらかな日差しがただ降り注いでいる中、卒業証書を大事そうに抱きかかえた少女 ―――― は、両手を大きく広げて深呼吸をした。この場所で三年間、ほんとうにいろいろなことがあったなあと思い起こされる。電光石火のように、断片的なものから走馬灯のように、緩やかな日常の出来事まで。「ほんとに、楽しかったなあ」野球をすきになれて、ほんとうに良かったといまでは素直に喜べる。バッタ−ボックスに立つ少年のまっすぐな瞳に恋い焦がれたことから始まって、気がついたら一生懸命野球の勉強をしている自分がいて、笑えてしまうくらいなんだかおかしい。 「 …、こんなところにいたのか− 」 「 泉くん。野球部のみんなのあいさつ、終わったの? 」 「 ああ。を捜してみたんだけどさ、やっぱいなかったからここかと思って 」 「 態態捜してくれたんだ… どうもありがとう泉くん 」 ふわっと舞い上がる風のようにほほ笑んでみたら、泉くんはほんのちょっとだけ気恥かしそうに瞳をそむけて「ああ」って言った。そんなひとつひとつがこんなにも愛しくて胸を締め付けるなんて、あのころの自分に想像出来ただろうか。いまならはっきり言える ―――― ノ−だ。そんなに昔じゃない三年前のことを思い出してみたら、またすこし胸の奥がくすぐったくなった。「すごいよね、三橋君」「三橋?」やっと思い浮かんだ話題が三橋君のことで、なんだか申し訳ないと心の中で謝りながらも、校舎で阿部とじゃれあっているであろう三橋に思いをはせてみる。「ほんの三年前までは無名校だった西浦に、球団からオファ−がくるなんてね。想像出来ると思う?」「ああ…まあ、なんだかんだ言っても、あいつはピッチャ−だからなあ。一度注目を浴びたら、そういう話もなくはないんじゃね?」あまり興味なさそうに、泉くんは話す。ほんとうはすこしうらやましく思っているだろうにと思いながら、それでもお祝いしたい気持ちのほうが強いんだろうと、かつてのチ−ムメイトを誇らしく思ってみたりする。 「 は、言ったのか?三橋に 」 「 うん?ああうん、おめでとうって言ったよ。相談、受けたときにね 」 「 相談−?んな話、俺はしらね−ぞ 」 「 三橋くんに口止めされてたんだよ−、大事な大会前だったから心配かけたくないって言って… 」 「 はあああああああ… あいつ相変わらずなんだなあ… 」 「 三橋くん、言ってたよ。俺なんかがみんなより先に球団に入って良いのかなあって 」 「 また余計な心配して…それは三橋の努力の成果だろ?誰も恨んだりしないって 」 「 …まあた強がっちゃって 」 「 はあ?んだよそれっ 」 ほんとうはその先の言葉を言っても良かったのだけど、ここへ来て泉くんと喧嘩なんてしたくなかったから、くすくすと笑うに落ち着いた。泉くんもあたしの心情を察してか、それ以上の言及はしなかった。泉くんのこういうところも、あたしはだいすきだ。泉くんがほんとうに優しいひとなんだって教えてくれる。だからあたしは「泉くんは、やっぱり優しいね」と言ってグラウンドに座り込んだ。「お前も飽きないよなあ…その台詞」「ふふ、だってほんとうのことだもん」「はいはいそうですか」とうとうどうでもよくなってしまったらしい泉くんは、あたしの隣に腰かけて空を仰いだりしていた。「ねね、泉くんっ」「あ?なんだよ」「サインちょうだい!」「サイン−?ってあれか?ほら、三橋と阿部がいつもやってるやつか?」軽いジョ−クのつもりだろうが、逆に笑えない。だけどそれがおかしくて、ふって笑みがこぼれてしまう。あたしって、自分が思っている以上に単純、なのかもしれない(恋愛に対しては、ね!)。 「 ったくしょうがね−なあ。色紙とか持ってんだろうな 」 「 ううん!でも練習記録はあるよ!ここにぜひ、泉くんのサインを入れてもらいたくてねっ 」 「 仕方ねえなあ…ほら、ペン貸せ 」 「 うんっ! 」 さらさらと流れるような筆跡で「 孝介 」と書いてくれた泉くん。「ほらっ!これで文句ないだろ」サインを終えた泉くんはすこしだけ照れくさそうにそう言って乱暴にペンを寄こした。「うんっ!ありがとう泉くん!でも綺麗なサインだね−、ひょっとしていつかのために練習してた?」「…まあな」「あはは、否定しないんだ−泉くんらしいね」「別に否定したってなんにもなんね−しな」「確かに。さてっ…用事はすんだし、あたしも行こうかなっ」「あ…おいっ」「ん?なあに?泉くん」立ち上がって、だけども振り返ったあたしを見るなり、泉くんは「オレ…お前に応援してもらって良かったと思ってる」「なに突然…あ、お別れの儀式?」「ちげ−よ、むしろその逆だ」「逆?」「離れ離れになるまえに、言って起きたことがある」「な、なに?」ドキンドキンと高鳴る鼓動は速度を増していくばかりで、呼吸さえも奪われそうになった。だけど瞳だけはそらしたくなくて、まっすぐに、彼を見据える。 「 ――― 俺は、おまえのことがずっとすきだった 」 「 泉、く 」 「 これからもずっと、そばで支えてもらいたい。ほかのやつじゃ…意味、ないんだ 」 「 泉くん… ありがとう…あたし 」 「 ? 」 「 あたしも… ずっとずっと、泉くんのことがすきだった。三年前からずっと、泉くんのこと見てたの 」 「 … 良かった、俺… 」 「 わあっ!い…泉くん? 」 顔をうずめるように抱きしめられて、思わずバランスを崩しそうになる。だって。うそだ、こんな ―――― 夢みたいな、こと。あたしの頭はまだフリ−ズしたままで、だけどすぐそばで感じる泉くんのぬくもりは確かなものがあった。そのぬくもりだけが、夢なんかじゃないんだって教えてくれているみたいだった。あああたし ―――― あたしはやっぱり。このひとのことが、どうしようもなくすきなんだと、改めてそんなふうに思った。そしてたぶんこれから先、こんなふうに思えるひととは巡り合えないような気がしていた。「サイン、無駄になっちゃったね」「は?」「良い思い出にするつもりだったのに…でも良かった」「?」「眺めているだけにならなくて。だってあたしは…何年経っても泉くんのことがすきなままだと思うから」「…」「行こう?みんな待ってるかもしれないし」「報告もしないとな」「ふふ、そうだね」風が、笑うように走り去る。ふたりの夢は、まだまだ始まったばかりなのかもしれない。 さらば、不可侵の青よ |