なんとなく、野球部が使っているグラウンドに目がいって、なんとなく、あの高いフェンスの周りを描きたいって思った、それだけ。 けれどそれがきっかけでずっと話してみたかったあのひとと話が出来るなんて、夢にも思ってなかったんだ。 「へ−、絵うまいんだな、さんって」 「…わっ、た、田島君!」 「んなに驚くなよ−せっかくほめてやってんのに」 「ご、ごめん…いきなりでびっくりしちゃって…練習、終わったの?」 「ん?おお。いまから片付け!な、阿部」 田島はそう言って、少し離れた位置にいた阿部君に声をかけた。彼はああ、とだけ言ってまた作業に戻ってしまったが、にとってはそれだけでも十分だった。 そんなの様子に気づいてか気づかずしてか、田島は何かおもしろいことを思いついたようにふ−ん、と言って笑みを浮かべた。 「さん、いま時間ある?」 「え?うん…って言ってもこう見えてわたしも部活中なんだけど…平気だよ」 「よっしゃ。阿部、泉−!片付けすんだらキャッチボ−ルやんね−?」 「はぁ?んなのおまえひとりでやってろよ」 「ま−、ま−。さんもいっしょにやるってさ−!良いだろ−」 「え?ちょ、田島君?」 思わず画材道具を落としそうになったに、田島はニカ、と白い歯を見せて笑った。 何かたくらんでいる顔だな、と思ったは、画材道具を小脇に抱え、そそくさと逃げの姿勢に入った ―― が、ことごとく田島君に止められてしまった。 「田島君、わたし忙しいんで!折角で悪いんだけど…」 「さっき大丈夫だっつったじゃねぇか!な、そう言わずに頼むよ!阿部も!泉も…って泉は?」 「泉ならとっくに帰ったぜ。おまえとキャッチボ−ルすんのがよっぽど嫌だったのかもな」 「ひで−!なんだよそれ!まぁ良いや、阿部!終わったんならやろ−ぜ」 「…ったく、しょうがねぇなぁ。はい、さんのグロ−ブ」 「え…あ、うん。ありがとう」 ぎこちないながらも、阿部君に差し出された野球部貸し出し用のグロ−ブを手に取り、三人で三角の陣営を作る。 時刻は四時を過ぎたばかりで、部活生もそろそろ帰り始める時間だ。ほんとうは阿部君だってすぐに帰りたいはずなのに ―― こうして、付き合ってくれている。 それだけで、ほんとうに胸がいっぱいだった。阿部君、田島君 ―― ほんとうにありがとう。 「あの…ふたりともごめんね、練習終わったばっかで疲れてるのに」 「あ−おれは別に構わねぇよ。自主錬だと思えば」 「さっすが阿部!おれのほうこそ無理言って誘って悪かったな、部活中だったのに」 「田島君…ううん、良いよ。誘ってくれてありがとう」 の放ったボ−ルが驚いて目を見開いている田島君の顔面に直撃した。どうしたんだろう?あれくらいの球、とれないはずないのに ―― 。 何があったのか、阿部君に聞こうと思って彼のほうを向いたけれど、その阿部君の表情もどこか険しくて ―― どうにも、聞ける雰囲気じゃないみたいだ。 「さん、投げるよ」 「え?あ、うん!良いよ」 不意に阿部君から声がかかり、少し緩めのボ−ルがこちらに向かって飛んでくる。はそのボ−ルを難なくキャッチし、とったボ−ルを田島君に返す。それが何度か繰り返されたあと、田島はそろそろだと頃合を読み、ふたりに言った。 「やっべ、そろそろ約束の時間だ!もう帰んね−と…」 「そうなのか?じゃあここらへんで切り上げるか」 「いや、おまえらだけで続けてくれ。 さん、案外まだやれそうだし…な、さん!」 「へ?いや、まぁ大丈夫なことには大丈夫なんだけど…って田島君!?」 田島君は去り際にじゃあな、と言ってベンチに置いてあった荷物をいそいそと持ち上げると、風のように去っていった。 それを呆然と見送っていたふたりは、わけも分からずただその場にたたずんでいた。 「あいつ…まさか最初からこうするつもりで…」 「…え?どういうこと?」 「…いや。どうする?続けるか?」 「わたしは別に良いけど…絵は、あしたまでに仕上げれば良いんだし」 「…そうか。ならもう少しやっていくか?」 「でも良いの?もうだいぶ日も暮れてきたよ」 「構わね−よ。おまえさえ良いんならな」 「そっか…ごめんね、阿部君」 別に、謝ることでもねぇよ、と言って、阿部君がボ−ルを放つ。阿部君と話が出来るなんて、いっしょにキャッチボ−ルが出来るなんて。 こんなにうれしいことはほかにはない、とわたしは思う。こんな時間をプレゼントしてくれた田島君に、感謝しなくちゃね ―― そう呟いて、阿部君にボ−ルを返す。 それは、とある日の、放課後の出来事。 阿部 優しい音速 070915 |