あんなに冷たく感じていた日差しも、いつの間にかぽかぽかと暖かくなっていて、そのおかげもあってか桜の開花がすごく早く感じた。 例年よりも数日早いこの並木道の桜も、いまでは7分咲きくらいにはなっている・と思う。専門的な知識なんかは当然持ち合わせていないから、そんなふうに思うだけなのだけれど。 きょうは入学式だから、こんな大事な日に遅刻するわけにはいかないと、母親よりも先に家を出たのだけれど、やっぱりちょっと早すぎたようだ。 わたしはそんなふうに思いながら、腕時計を見下ろした。うん、やっぱりちょっと早い。どうしたものか、と思いながら大きく背伸びをして、桜並木を見上げる。 ――― ワンワンワン! ワン? 少し離れた場所から犬の鳴き声が聞こえて、わたしは思わず鳴き声のするほうを振り返った。このあたりはジョギングするひとやサイクリングするひとが多い。 だからもちろん、この場所を動物たちの散歩コ−スにしているひとも少なくないわけで ―― だけれど、高校生になってはじめてここが通学路になるわたしにとっては、 なんだかちょっと珍しかった。同時に、新しい発見をしたような気持ちになって、なんだか気持ちが浮き立つ。 「悪かったな、わんこ。 怪我、なかったか」 ――― ワン! 「大丈夫ですよ、この子見た目以上に頑丈ですから」 「はは、そういう問題じゃありませんから…。ボ−ルがあたってしまって…ほんとにすいません」 飼い主さんに謝っている男の子は、自分と同い年くらいかそれよりもひとつ上のように思えた。彼はまた、飼い主さんの女性に頭を下げて子犬を撫でていた。子犬は、とても嬉しそうに尻尾を振っている。 笑顔がとても素敵なひとだな、と思った。それがわたしの、彼への第一印象。エナメルバッグを抱えているところを見ると、部活生なんだろう ―― 見ていてすごく、重たそうだ。 それにさっき、彼は ボ−ルをぶつけた と言っていた。だからきっと、テニス部か野球部なんだろうな・なんて思いながらまじまじと彼を見ていると、不意に目が合った。 「…なんだよ」 「え…、ううん!なんでもない よ?」 「ふうん。お前、よその学校のやつだろ?良いのかよ、遅刻」 「え?えと…ああうん!そろそろ行くよっ!きょう入学式なんだあ」 「ふうん?まあがんばれば」 白いエナメルバッグを抱えた少年はそう言って悪戯っぽく笑いながら、ぽんぽんとわたしの頭を二度たたいたあと、すぐ桜並木の向こうに姿を消してしまった。 「あ…名前聞くの、忘れちゃった…」完全に姿が見えなくなってから、ふとそんなことを思った。わたしのばかばか!なんでいっつも肝心なこと忘れるのよ…!躍起になりながらも、 学校行かなくちゃ・なんて切り替えられるあたり、頭の中は妙に冷静だった。だけれど、なんだか騒がしい胸の奥だけはごまかせそうにはなかった。とくん、とくん、胸に触れて聞こえる、ちいさな鼓動。 あのとき ―― あの子と目が合った瞬間。夢みたいに、時間が止まったみたいに思った。その瞬間だけが、なんだかとてもドラマチックで ―― それに、「頭…撫でられちゃっ、た」家に向かう途中、考えるのはそのことばかりだった。 父親以外の男のひとに、あんなふうに頭を撫でられたのははじめてだった。そのひとつひとつが男の子って思えないくらい優しくて、だからこんなに気になって仕方ないのかな・なんて思ってみたりする。 「やっぱり…いないよね…」 それから数日が経って、日直になったわたしはまた早めに家を出なければならなくなった。だけれど、あの日のことを思い出すと、それほど苦痛でもなかったから不思議だ。 あの日からこの並木道を通るたびにあのひとの姿を探していたのだけれど、あれ以来会っていない。もう会えないのかなあ、なんて思っていた矢先 ―― 強い風邪が吹いて、制服のリボンが飛んでいってしまった。 「も−、ちゃんと結んだはずだんだけどな…」どこ行っちゃったんだろ、とあたりを探し回る。「…なにしてんの?」不意に、聞き覚えのある声と自転車を止める音がして、わたしはぱっと顔をあげた。 その視線の先には、あれほど待ち焦がれていたひとの姿があった。「な…なななな、なにって!そ、そっちこそっ」なんだか、体中が熱い。おかしいよ、なんなのこれ! 「?んなに驚くことでもねぇだろ。 俺はこれから野球部の朝練。お前は?」 「え、えと…これを見ても分かりませんか」 とんとん、と胸元にあるはずのものがあった場所を指差した。「ん?ああスカ−フか。風で飛んでっちまったんだろ、あほくせ−」すべて見透かしたように言われると、やっぱりかちんとくる。 だけれどそれ以上に、またこのひとに会えたことが嬉しくて、反論する気にはなれなかった。なんというか…ほんとうに都合が良い。わたしがぽかんとしていると、あたりを見回していた彼が、不意に嬉しそうな顔をした。 「あらま、あんなとこに…ちょっと待ってろ」彼はそう言って自転車を降りるなり、桜の木に登り始めた。「え!あ、危ないよっ」我に返ってそう言ったころには、彼は自分のすぐ目の前にいて、「ほら」てスカ−フを差し出していた。 「あ…ありがとう…」 「ど−いたしまして。んじゃ、そろそろ行くわ。お前も遅刻すんなよ」 「あ!あの!名前…っ」 「ん?俺は準太、高瀬準太だ。青桐高校二年、お前は?」 「わ、わたしは!!あの…また、会えるかなっ」 「そうだな。また会おうな、」 そう言って、あのときみたいに満面の笑みを浮かべて自転車のペダルを踏み込んだ。わたしはまた、あのときとおんなじように彼 ―― 高瀬準太くんの背中を見送る。 「高瀬準太、高瀬準太」忘れないように、何度も名前を繰り返し反復する。そのたびに、わたしのこの胸は熱くなるばかりだ。この気持ちの名前を、わたしはまだ知らない。 だけれどきっと ―― また会えたときはきっと、分かるはず。そうしたら、きっと伝えよう。わたしの中にあふれている、この気持ちを。 A pianissimo march |