「あっつい−。お、−!きょう阿部んとこ行くのか?」 「は、花井君?う、うんそのつもりだけど」 「そか、じゃあ大丈夫だな。気をつけて帰れよ」 部活後、ひょっこりと野球部に顔を出したは、野球部キャプテン・花井梓に声をかけられ、そんなやりとりを交わした。 幼馴染の阿部が、ここのところらしくないことはなんとなく気づいていたけれど、花井の言った「自分がいるなら大丈夫」と言う言葉の意味が、ぜんぜん分からなかった。 だけれどはとりあえず頷いて、駐輪場に向かった。花井梓の情報によれば、どうやら阿部はもう帰ってしまったらしい。残っていたのは、キャプテンの花井梓と栄口、そして監督だけだった。 「も−、いつもなら残ってるはずなのに…隆也のばかっ」 自転車をこぎながら、阿部の家へ急ぐ。夏だから日はまだ高いのだけれど、あまり遅くなるとおばさんにも迷惑をかけてしまうから、様子を見るなら急がなくては。 「でもほんと、ここんとこ隆也って元気ないよね…」阿部の家に着いたは、適当に自転車を置いて、インタ−ホンを押す。高校に入ってからと言うもの、阿部宅に来るのは少しばかり久しぶりな気がする。「はい!あ!姉、いらっさい!いま母さん出かけてて…兄ちゃんもまだだよ」そう言って元気よくを出迎えてくれたのは、隆也の弟・シュンだった。 中学生の彼は、確か隆也とおんなじ野球部のはずだが、やはり中学生のほうが帰宅が早いらしい。はそう思いながら、ひと思案した。 「おかしいなぁ…キャプテンの話だともう帰ったって…」 「ん−寄り道してんじゃねぇのかな。兄ちゃんの部屋で待ってる?」 「良いの?」 「その様子だと、兄ちゃんが気になってたんだろ?母さんも喜ぶだろうし…入りなよ」 「ありがと、シュン君。お邪魔します」はそう言ってくつを脱ぎ、約二ヶ月ぶりとなる阿部宅に足を踏み入れた。直後、居間のほうからわあ、と言う歓声が聞こえて、はそちらを振り返った。「こないだのビデオ、見てたの?」おそらくそうだろうと思っていたは、かばんを置いてシュンにそうたずねた。ちょっとまえに行われた、三回戦のときの映像だ。 お茶を用意してくれていたシュンは「うん!ここのとこずっと見てっかな−。兄ちゃん試合尽くめだって言ってたから」と言って、テ−ブルにお茶を添えてくれた。 「ありがとう。それにしても隆也…遅いねぇ」 「ん−、うん。部屋に行ってる?」 「ううん、ここで良いよ。隆也、もしかしたら嫌がるかもしれないし…ありがとね。適当にビデオ見てるから、お部屋に戻る?」 「ん−、なぁ姉!だったらさ、勉強教えてくんない?宿題終わんなくてさ」 「うん?わたしなんかで良ければ良いよ、ひまだったし…おばさんたちの手伝いにもなるしね」 はそう言って微笑み、「やった!サンキュ−姉!」と言ってはしゃぐシュンを、微笑ましく見つめた。そう言うなりシュンは自分の部屋に戻り、ものの数分でテキストを抱えてリビングに下りてきた。 それから数時間は、シュンに勉強を教えてやりながらのんびりとすごした。隆也が帰宅したのは、が阿部宅にやって来てから、二時間がすぎたころだった。「ただいま…ん?うちの女子のくつ…?来てんのか…」そんな気だるそうな隆也の声が聞こえて、とシュンは顔をあげた。「そうだよ!兄ちゃんおかえりっ」シュンは元気にそう言って、満面の笑みで隆也を出迎えた。 「んだよシュン、やけに嬉しそうじゃね−か」 「へへへ−!姉に勉強見てもらってたんだ、良いだろ−うらやましいだろ」 「…別に。つか、何の用だよ」 「別に!隆也の様子が気になって来てみただけなんだけど…いけなかった?」 「いけなくはね−けど、余計なお世話だ。まぁ、シュンのやつのわがままに付き合わせちまって悪かったな」 「ううん!隆也待ってる間ひまだったし、良いよ」 は少しばかり嫌味をこめて言ったのだが、隆也は力なく「ああそう」と言っただけだった。少しばかりかちんときたけれど、いまの隆也とケンカするつもりは毛頭なかったから、反論はしない。 「…着替えてくる」ちらりと一度こちらを振り返った隆也はため息交じりにそう言って、自分の部屋へ向かった。「ほ−い」シュンはそう返事をして、またテキストとノ−トを交互に見つめた。 「なによ、迷惑面しちゃってさ!心配して損した!」ぷりぷりと怒りの態度をあらわにしながら、愚痴をこぼす。そして、シュンの出してくれたお茶を一気に飲み干した。 「照れてんだよ、兄ちゃん。ぶっきらぼうに見えるけど、ほんとはね−」 「…うん、分かってるよ。そういうのは幼馴染のわたしがいちばん分かってるつもり。 だけどね…このごろ隆也の気持ちがわかんなくなることがあって…勝手に不安になっちゃって、」 「姉…ひょっとしてさ…」 「うん?なあに?」 が少し困ったふうに笑みを浮かべてそういうと、シュンは「やっぱなんでもない」といって再びテキストとにらめっこを始めた(なんなんだろう…?)。 それから、午後五時を告げる時計の音色が聞こえて、はよいしょ・と腰をあげた。シュンの勉強も後半にさしかかったところで、「じゃあわたし、帰るね」と言ってかばんを持った。 「え?もう帰っちゃうの?」そう言うなりシュンはぱっ、と顔を上げてをじっと見つめた。その様子が年相応に可愛らしくて、はくすっと笑みを浮かべた。 「ごめんね、きょう夕飯当番なの。また今度遊びに来るから」 「ほんと?」 「ほんとほんと。時間があったらシュン君の試合も見に行くよ」 「やった!姉が来てくれるんなら俺、がんばるよ!」 「ばかシュン、んな時間あるかってんだ。つうかもとっとと帰れよ、お前もひまじゃね−んだろ」 「はいはい、帰りますよ−言われなくてもね!」 はそう言って、どかどかとあえて地響きを鳴らしながら玄関に向かって歩き、くつとスリッパを履き替えた。「…隆也!」立ち上がり、ドアノブをひねろうとしたところで、は隆也の名前を呼んだ。予想していたとおりに、隆也は少しふくれっつらをして「…んだよ、」と言って眉間にしわを寄せた。変なことを言ったらぶっとばす・とでも言いたそうな顔をしている。 だからはくすくすと笑みを浮かべながら、ちょいちょいと隆也を手招きした。「あ?」と言う思っていたとおりの返答が聞こえて、は噴出しそうになるのをこらえながら、隆也の頭をぽんぽんと優しく撫でた。 「は?」 「がんばってるね、隆也!えらいえらい」 「テメェ…俺はもう、あんときみたいなガキじゃね−んだぞ」 「分かってますよ、でもほんとうにがんばってるんだなって思って、ご褒美ご褒美!」 「だからガキ扱いすんなって…!」 「まぁまぁ。わたし、ずっと隆也のこと見守ってるから!ずっとずっと隆也の味方だからね!ばいばいっ」 は満面の笑みでそう言って、阿部宅を出て行った。のいなくなった玄関先に阿部兄弟はふたりそろって、「なんだったんだ…?」と首をかしげた。 これは少し時間が経ってからの話しだけれど、シュンにはなんとなくあのときのの行動の意味が分かったような気がした。あれがなりの、兄へのねぎらいの言葉 ―― 精一杯の愛情表現だったのかもしれない・と思うと、ほんの少し兄のことがうらやましくなった。 その兄はと言うと、いまはもう何食わぬ顔をして録画テレビに釘付けになっている。ほんと、うちの兄貴って幸せ者だよな。 ひたむきな指先 |