☆ ☆ ☆



「ヘラヘラしてんじゃね−よ」


帰り際、ぼそっと ―― だけれど、確かに自分に向けて放たれた言葉。その声は確かに自分のクラスメイトのもので、は心がぐらついたのをハッキリと感じた。 じゃあ、どうすれば良いの。どうすれば良かったの。ねぇ、教えてよ。誰か教えてよ ―― 。




☆ ☆ ☆




がしゃん、とフェンスをつかむ。秋の風が、冷たくひゅうと素肌を撫でた。わたしはもうすぐ、あなたの一部になる。あなただけは、わたしを受け入れてくれるよね。 少女 ―― は大きく深呼吸をして、フェンスの隙間に足を踏み入れた。一歩ずつ、少しずつ ―― だけれど確実に上っていく。そのときだった、予期せず屋上の扉が開かれたのは。 「なに、してるの…?」そう言った彼は、割れんばかりに息を荒くして肩で息をしている。その動作ひとつひとつが走ってきた・と言うことを如実に理解させる。


「あんたは…」


正直、クラスの連中のことはどうでも良い・と思っていたから、クラスメイトの顔とか名前とかはぜんぜん覚えてない。別段、覚えるのが苦手と言うわけではなく、 ただ単に興味がなかったからなのだけれど ―― 彼・三橋廉だけは、その独特な風貌と常に挙動不審な動作から自然と記憶せざるを得なかった。しかもその彼は、確か自分の隣の席だったはずだ。 なんとも言えないタイミングの悪さに、は頭をかきむしりたくなる衝動に駆られた。邪魔された、そのこともそうだけれど、相手があの三橋だと、不思議といろいろなことがどうでもよく思えてしまうのだ。


「三橋、廉…だっけ。なにしてんの?こんな時間に…て、ああ部活か」
「ん、うん」
「なに?もう部活終わったの?」
「う、うん。さんは…なに、してたの?」


呼吸を整えながら、少しずつ自分のほうへと歩み寄る。その仕草はどれをとってみても冷静そのもので、普段の三橋からは創造もつかないほど落ち着き払っていた。にとってみればなんだかそれが逆に不自然に思えて、おかしくて、笑いがこみ上げた。やっぱり、こいつといると調子が狂う。だからどう・と言うことはないのだけれど、ただ単にそんなふうに思うだけだ。 「空…飛べそうだなあと思って」は小さく舌打ちをしてフェンスから降りた。そうしてみえみえのうそを吐いて、空を ―― 夕焼けに染まっていく空を仰いで、過ぎ行く風に耳を済ませた。


「空…?」
「そ。三橋くんも時々そんなふうに思うこと、ない?」
「あ、る…よ。けど…さん、は」
「あ−、違う違う。心配して来てくれたならお礼を言うよ。でも、そんなんじゃないから」
「でも、」
「そうそうこのことは他言無用だからね。三橋くん、部活で疲れちゃったでしょ?早く帰んなよ」


そう言って、しっしっと猫を追い払うような仕草をしてみせる。だけれど何を思ったのか三橋は、意を決したように顔を上げると、の腕をつかんで屋上から連れ出した。「、さんも、いっしょに…帰ろう!」に背を向けたまま階段を下りていた三橋は、普段からは想像もつかないほど大きな声でそういった。そして、その様子は普段の三橋からは想像も出来ないほど積極的だった。 だからかは分からないけれども、ほんの少しだけ胸元が騒がしい気がした。たぶん、こんなのは気のせいでしかないのだろうけれど、落ち着かなくて歯がゆい。


「三橋、くん!痛い…痛いってば、離してよ!」
「や、だ!離したらさん、がいなくなっちゃう気が、して…!」
「はぁ?」


なに言ってんだ、コイツ。はその言葉をのどの奥にしまいこんで、ただ黙々と三橋の後ろを着いて歩く。ていうか、普通に振り払えば良いじゃんか。なんで出来ないの。なんでしようとしないの。はそんな思いと葛藤しながらも、結局は黙って三橋のあとをついて歩くと言う選択肢しか見つけられなかった。そうして会話もないまま、ふたりは人気のない公園のベンチに腰掛けた。 その間も、三橋は頼りなくも缶珈琲なんかを差し入れしてくれたりして、きょうはなんだかいつもとはまったく別人の三橋を見ているようだ・とは思った。


「はい、ジュ−ス代」
「へ、」
「ちゃんと三橋君の分もあるよ。きょう邪魔してくれたお礼」
「い、良いよ。そんなお礼、いらない…、ほしくない」
「なに?わたしの気持ちがもらえないっていうの?」


が悪戯っぽく笑いながらそういうと、けれども三橋はいたって真剣そうに首を振るので、はなんだか意気消沈してしまった。ほんとうに、三橋ってこんなだったっけ。 何度思い返してみても、いつも挙動不審な三橋の姿しか思い浮かばなくて、はまたひとつ首をかしげた。そう言えば、三橋はさっき自分がこの手を離したらがいなくなってしまう気がした・といっていた。それは、おおむね事実に等しいとは少なからず感心した。いま思い返してみれば、そんな確信のようなものがあったから、あの手を振り払えなかったのかもしれない。まあ、すぎてしまったことはどうでも良いのだけれど。


、ちゃん…あの、ね」
「ん?(ちゃん?)」
「俺…、高等部、他県を受けようと、思うんだ」
「へぇ、そうなの。なに?親の事情?」


適当に理由をつけてそういうと、三橋はまたも真剣に首を振って、「野球…やめようと思うんだ。ヒ、ヒイキでやって、たって…嬉しく、ないし」と言って俯いた。 そう言えば、そんなうわさを聞いたことがあった。三橋と言えば親が自分の通っている三星学園の理事長だかなんだかで、そのおかげでエ−スをやらせてもらっている・とかなんとか(くらだない…)。 だけれど、それを思い出して気がついた。ああ ―― 三橋は三橋なりに、とてつもない苦労や苦難を重ねてきているんだ。出来ることならここで野球を続けたくて、だけど出来なくて。他県への受験も、決意のうえでの決定なのだろう。 それならば、それはすごいことだとは心から感心した。自分なら、そんなことは出来ないかもしれない。出来たとしても、続く気がしない。


「すごいね、三橋は。三橋がそう決めたんなら、向こうでがんばったら良いんじゃない」
さ、」
「あ−、なんかいまの三橋見てたらいろいろどうでも良くなっちゃった。わたしはわたしなりに、がんばるよ」
「ほ、ほんとう?」
「ほんとほんと。だからさ、その…三橋がそんな顔するの、やめなよ」


え、という声とともに、三橋が顔を上げる。案の定、いまにも泣き出しそうな顔をしていて、ほんの少し肩も震えていた。がんばってたんだな・と思った。 いままでも、たったいまも ―― そしてたぶん、三橋はこれからもがんばっていくんだろう。だからわたしも、と思えるようになったのだから。


「ありがと、三橋。ほんとうにありがと」
…さん、」
「ダイジョブ、何にも言わなくたって、分かる…分かるよ、三橋」
「…うん、ありがと、さん」


どうして三橋がお礼を言うの。変なの ―― は笑顔とともにそんな思いをしまいこんで、立ち上がった。飲み干した缶珈琲をゴミ箱に放り投げて、「帰ろう?」と今度はから手を差し出す。 これは、お礼。引き止めてくれた、お礼。優しく、廃れたわたしの手を引いてくれた、お礼。ありがとう ―― きょうは、あなたに会えてほんとうに良かった。



どうか 消えないで