あれは、あたしが野球部のマネジとして入部してすぐのころ。マネジならみんなの連絡先を知っておいたほうが良いだろうという千代の計らいで、 主将の花井君を始め、副主将の阿部君や栄口君、エ−スの三橋君、四番の田島君など、いろいろなひとと携帯電話やメ−ルアドレスの交換をした。 ほとんどのひととは穏やかに話をしながら交換出来たのだけど ―― たった、ひとりだけ。栄口勇人君のまえだけでは、ちゃんと話をすることも出来なかった。 何故って、だってあたしはそのとき ―― とても嬉しそうに話をする栄口君の笑顔に、胸を打たれてしまったの。つまりは、一目ぼれしちゃったって、こと。

「オレ、栄口勇人。こんなんでも一応副主将なんだし、何かあったら気軽に言ってよ」
「…、あ、っと。う、ん…」
「じゃ、またあとでね、さん」

にっこりと屈託の無い笑みを浮かべて、栄口君はあたしに背を向けた。ほんとうは、もっといろいろお話しするつもりだったのに。 引き止めるつもりで伸ばした腕も、虚しく空を切った。あれから、早数ヶ月。マネジの仕事にもただいぶん慣れてきて、千代とおんなじくらいになった。 とはいえ、まだまだ足を引っ張ることもたくさんあって、マネ業に忙しい毎日を送っていた。遅れをとってみんなに迷惑かけるわけにはいかないと思って、 みんなよりも早くに来て野球のル−ルやスコアのつけ方を部室で勉強していると、不意に携帯電話のバイブ音が周囲の空気を震わせた。

「わっ!びっくりした…誰だろう。部活までにはまだ時間あるし…」

ほんの少しだけ眉間にしわを寄せて、携帯電話のディスプレイを開く。それから受信ボックスを見て、あたしは思わず携帯電話を落としそうになった。 「さ、栄口君、だ…」固唾を飲み込む音とともに、あたしはメ−ルを開く決心をした。あたしから業務連絡ってことでメ−ルすることはあっても、 栄口君の私用で(ほんとうに私用かどうかは分からないけれど)メ−ルを送りつけるだなんてほんとうに珍しいことだと思う。

「えっと…もうすぐ部活行くけどもう部室にいるんでしょ?飲み物何が良い…?
 そ!そんな…気を遣ってもらわなくても良いのに…っていうかどうして栄口君あたしがここにいるって…」
「遠慮ならしなくて良いよ。いつものお礼のつもりだし。
 っていうかがみんなより早く来て野球の勉強してるってことはもう部のみんなには知れ渡ってることだけど?」
「…っきゃああ!?」

突然部室の扉が開いて、おまけに栄口君の声がして、あたしは思いっきりバランスを崩した。机の上においてあったノ−トや用紙が、 バサバサバサと遠慮なしに床へと落ちていく。それに比例するように、あたしの体も大きく傾いた――。あたしは衝撃を覚悟して、受身の態勢をとろうとした。 けれど、数秒後にくるはずの衝撃はなく、代わりに何かに肩をつかまれている感じがした。

「さっ、栄口君…?」
「大丈夫?」
「う、うん…!ご、ごめんね…もう大丈夫、」
「…荷物、片付けないとね」

栄口君は、おそらく真っ赤になっているであろうあたしの顔を直に見ているはずなのに、笑うでもなくからかうでもなく、ふんわりと笑みを浮かべてそう言った。 やっぱり、栄口君は優しいなあ…。いまのもきっと、何か言ったらあたしが困ると思って、気を遣ってくれたのかもしれない。 「ありがとう」…言いたいのはそれだけなのに、その言葉だけがうまく声にならない。それがまたもどかしくてどうしようもない。

「栄口君…あの、ね!」
「ん?荷物、これで全部みたいだね」
「あ…なんだかいろいろごめん、ね…?」
「謝らなくて良いよ。はい、レモンティで良かった?少しは休憩しようよ」
「…ありが、とう…」

栄口君が差し出してくれたレモンティを受け取りながら、やっとそう告げられた言葉は、けれどもやっぱり少しだけ震えていた。 だけど栄口君はうん、って頷いて自分に買ったジュースを開けて「おいしいね」って言った。ああ、やっぱり ―― あたし。あたしは、栄口君がすきだな。 途端に、携帯電話のバイブ音がふたりの静寂の間を縫うように響いて、あたしはまた声をあげそうになった。そこをどうにか我慢して、ディスプレイを開く。 今度のメ−ルは、千代からだった。あたしはほっと安堵して、メ−ルを開く。不意に栄口君が「メ−ル?誰から?」と尋ねて来たので、あたしは「千代からだよ」と言った。

「篠岡か…ん?メモリ番号って…タイトル入ってないのが多いね?」
「そ、そう?あっ、そ…だね!うん!」
「どうかした?」
「なんでもない、よ!なんでもない!」
「…ぷっ。、話し方が三橋みたいだな−。オレ、そんなに話しにくい?」

不意に、栄口君の声色が低くなった気がして、あたしは一生懸命にふるふると首を振った。ぜんぜん、そんなことないよ。阿部君のほうがよっぽど話しにくいし。 いや、そういうんじゃなくて…あたしが栄口君とお話出来ないのは、妙に意識してしまうからで。ほんとうはもっと、もっと、お話したいよ。もっと、栄口君のこと知りたいよ。 だけど、そのためには ―― きっと。あたしのほうから、近づく努力っていうのをしなくちゃいけない、んだよね。

「区別…したくなかったの」
「へ?メモリ番号のこと?」
「…うん。大切なひととかは、0番に入れるの。だから」
「そっか。だから、の携帯にはグル−プ設定が少ないんだな−。じゃあ、さ」
「…え、なに?」
「オレのは…さ、この0番の中にある…かな?」

栄口君にしては珍しく、歯切れの悪い言葉だった。あたしは少しだけ顔を上げて、栄口君のほうを向いてみた。 そうしたら、気のせいかもしれないけれど彼の顔が少しだけ赤くなっているように見えた。あたしはまた俯き加減に、だけどゆっくりと頷いた。

「そっか、そっか。良かった−」
「栄口、君…?」
「すっごい不安だったんだ。もし違うところに入ってたらどうしようって…。オレ、のことがすきだから」
「…はい…?」

栄口君は、いまなんて言ったんだろう? ―― すき?こんなあたしを、すき…?何度も繰り返したあと、いままでのいろいろな思いがあふれてきて、 こらえ切れなかった涙がとめどなく流れ出てきた。当然のように栄口君は驚いていたけれど ―― だけど、何も言わずにそばにいてくれた。 ありがとう、栄口君。あたしは、あなたを思うことが出来て、ほんとうに幸せです。だから、今度はあたしからあなたにすき、の思いを。


メモリ番号000

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