俺のまえの席のには、少しまえからすきな奴がいるらしい。少しまえ、と言っても中学時代あたりかららしいが。 とにかく、そんな彼女に、俺は好意というものを抱いているようで、篠岡に相談してみたところこの不可思議な気持ちは一般に「恋」と呼ばれているらしい。 俺は、その言葉を聴いた瞬間自分の耳を疑いたくなった。だって、普通に考えてもあり得ない。この俺が、野球以外のことに興味を持つだなんて。 けれども、人生というのはほんとうに何が起こるかわからない ―― そのことを、俺は身をもって知ったのだった。 「はい、阿部君」 「…え?」 「え、じゃなくって。プリント!後ろに回してって先生が…」 「…ああ、悪い。プリントな」 俺が呟くように言うと、はにこやかに笑って「そうそう、プリント」と悪戯っぽく言ってみせた。畜生、可愛いなあ。 そんなことを考えてしまうあたり、俺はやっぱりこいつのことが、すき、なんだろう。改めてそう認識すると、心臓が一瞬大きく跳ね上がった気がした。 毎度のことながら、こんなことで動揺してしまうだなんて、情けなく思う反面嬉しさ、みたいなものがこみ上げてくるのだから笑ってしまう。 俺は小さくため息を吐いて、後ろの奴にプリントを手渡す ―― よほど待っていたのだろう、そいつは少しだけ眉間にしわを寄せてどうも、と言った。 「いまのひと、怒ってたみたいだったね。ちゃんと謝った?」 「うお、なんだよ…びっくりすんじゃねえか」 「ごめんごめん、でもいま課題の時間だから、相談しても問題ないよ」 そういう問題でもないんだけど。俺は胸中でそう呟き、今日二度目になるため息を盛大に吐いたあと、課題らしいプリントに取り組む。 その間もずっと、まえの席のこいつはじいっと俺が問題を解くのを眺めていて、なんていうか、ものすごくやりづらくなった。 気のせいか、シャ−ペンを握る手のひらがじんわりと汗ばんできているような気がする。俺は耐え切れなくなって努めて冷静に「なんだよ」と言った。 「あ…う、ううんっ!ただその…教えてもらえたら嬉しいなあ…って」 「…もしかしなくてもおまえ、数学苦手?」 すまなそうに頷くを見つめ、俺はやっぱり、とうなだれた。仕方ない、少しばかりはいっしょにやってやっても良いだろう。 けれども、ただで教えてやるというのもなんだかおもしろくないような気がして、俺は少し頭をひねった ―― そうだ。 俺は良い案を思いついて、に「数学教える代わりに、のすきな奴のこと教えてくれよ」そう、言ってみた。するとは、 まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったんだろう、意外そうに何度も目を瞬いていた。その仕草ひとつひとつが、とても可愛らしいと思える。 「…阿部君、そんなこと興味あるの?」 「良いだろ、誰にも話したりしないからさ」 「う−ん、阿部君がひとの秘密話したりするようには見えないけど…」 「いまいち信用がない?」 図星であることを怒るわけでもなく、はただこくんと頷いた。言うわけがない ―― 仮にも自分が思っている相手の秘密だ。 そんな相手に、嫌われるようなことを誰がするだろう。俺は少しだけ真面目な顔をして「大丈夫だよ」と言って見せた。 やがては唸るのを止め、しぶしぶと言った感じで「 ―― 分かったよ」と苦笑いを浮かべた。あんまり、乗り気じゃないんだろうな。 そりゃそうだ、他人に自分のすきな奴のことを話すことなんて、普通なら例外が無い限りあり得ないことだ。聞き出すからには、それなりの覚悟が必要ということだろう。 「、結構出来るじゃね−か」 「そうかな。ちょっと自信がなかったから…でも阿部君に見てもらって良かった! ありがとう。阿部君って教えるのが上手なんだねぇ」 「…そうか?」 「そうだよ!すごく分かりやすかったもん。あ!お話、放課後で良いかな?いっしょに帰ろうよ」 「…そうだな、おまえんとことそんなに遠くなかったはずだしな」 じゃあ、放課後校門前でね、という言葉を最後に、数学の授業が終わった ―― チャイムが鳴り、委員長の号令で生徒全員が立ち上がる。 一通りの挨拶のあと、教室内はいっせいににぎやかになった。昼休みが始まったんだ。俺は時計を見上げ、何となくそう思った。放課後まではだいぶ時間がある。 待ち遠しくない、と言えば嘘になる。なんせ、といっしょに帰れるんだ、こんなに嬉しいことはないかもしれない。早く、放課後になれば良いのに。 まあ、現実はそう簡単にはいかない。こういうときに限って、残りの時間がやたらと長く感じた。そうして、放課後。俺は支度も手短に部室を出た。 帰っていく部員たちを見送りながら、校門前に立ってを待つ ―― は確か、バスケ部だったはずだ。以前、浜田がそんな話をしていたのを思い出した。 「ごめん、お待たせ!ミ−ティングが長引いちゃって!」 「お−、構わね−よ。俺もちょっとまえまでミ−ティングだったし」 「そっか。じゃあ帰ろう!阿部君も部活お疲れ様−」 「お−さんきゅ。もお疲れ。バスケ部だっけ?」 「うん、そうなの。まだぜんぜんだけどね−」 「へぇ…けどお前リ−チあるもんなあ。何センチ?」 「えっと…このまえの身体測定だと167センチだったよ!」 「一年でそれだったら結構あるんじゃねぇか?まだ伸びるんだろうなあ」 見たところ、と俺の身長差はごくわずか。これだけのリ−チがあれば、試合でも優位に立てるに違いない。 おっと、話がそれた。俺は軽く深呼吸をし、歩幅を緩めながら「ところでさ、昼間の続きなんだけど」と話を切り出した。 一瞬、空気がぶれた気がしたけれど、それは決して気のせいなんかじゃないだろう。は落ち着きなさそうに「…うん、」と答えた。 「中学校のころかなあ…わたし、そのころすっごく勉強が出来なくてね」 「へぇ…意外だな。なんでも出来そうなイメ−ジあんのに」 「あはは、わたしだって万能なわけじゃないんだよ。そりゃ運動神経は少しくらい良いかもしれないけど」 「そりゃあなあ。んで?」 「同じクラスだった男の子に、良く勉強を教えてもらってたの。 それからかなあ…その男の子のことなんだか気になるようになっちゃって…」 「ふうん…で、そいつとはどうなったわけ?」 「うん。わたし、臆病だから…結局、卒業まで気持ちを言えなかったの。 そのひとが野球してるひとだっていうことは知ってたけど…何処の高校かまでは分からなくって、それっきり」 何処か寂しそうに話すの横顔を見つめながら、俺はうん?と頭を捻った。なんだろうな、この違和感。すごく、懐かしいようなそんな感じがする。 俺はわずかにざわめき始めた胸を押さえるようにしながら「ちなみにお前、何処中?」と何気なく尋ねてみた。 するとは「確か、阿部君とおんなじ中学だよ」と、笑みを浮かべながら言った。この懐かしい感じが嘘じゃないとするなら ―― 。 「…それ、俺かも」 「…へっ?」 「何となくだけど…良く勉強教えてた女子がいたような気がするんだよ」 「ほ、ほんとう?じゃあ、ほんとうに阿部君が…?」 「あんまり自信ねぇけど…の記憶と俺の記憶が一致してんなら、間違いねぇかもな」 「そっか!それがほんとうなら、すごい奇跡だよね!」 「偶然の間違いなんじゃねぇの?」 「ううん、奇跡だよ。…あ、どっちでも良いかな」 「なんだよそれ。…じゃあさ、」 「…はい?」 「俺…に告白、しても良いか」 瞬間、空気が変わる。けれども、の表情は徐々に笑顔に変わっていって、うん、と言って元気に頷いて見せた。 「俺はずっと、がすきだった」静かに、そう告げてゆっくりとと向き合う ―― 彼女もまた、歩くのを止めて「うん、ありがとう阿部君」と満面の笑みで答えた。 一瞬の沈黙 ―― だけどなんだかおかしくなって、気がついたらお互いに笑いあっていた。うん、きみに出会えてほんとうに良かった。 それが全部、全部愛しかった |