わたしは最近、悩み事が出来てしまった。わたしの数少ない取り柄のひとつが悩みのないことだったのだけど、 その数少ない取り柄のひとつも、またなくなってしまった。その原因は、隣の席の、阿部隆也にあるとわたしは思う。 新学期が始まって ―― そうすると、もちろん席替えもあるわけで、結果わたしはなんとこの阿部隆也の隣になってしまったのだ。

「(…あり得ない)」

わたしと同じように頬杖をつきながら黒板のほうを向いている阿部隆也のほうを何気なく見つめながら、わたしはそう胸中で呟いた。 何故、よりにもよってあの阿部隆也なのだろう。少なくとも花井とか、水谷とか、千代とかだったら万々歳だったのに。 これから数ヶ月、悩みの元凶とも言える阿部隆也と隣だなんて、考えただけで気が遠くなる。 なんて、そんなことを考えていたら、相変わらず面倒くさそうにしている阿部隆也と視線がぶつかった(うわぁ!)

「…なに驚いてンだよ、失礼な奴だなァ」
「べ、べ、別にっ!何か用?」
「なにって小テストだよ、漢字の。話聞いてなかったのか?
 採点すんだから、さっさと問題解けよな。そして早くプリントを後ろに回してやれ」

可哀相だろ、と阿部隆也に言われ、わたしは黒板のほうを振り向いた。黒板には小ぢんまりとした字で「漢字小テスト」と書かれている。 そう言えば、きょうは月に一度ある、漢字の小テストの日だった、と、わたしは遅れて思い出した。 わたしは胸にちいさな苛立ちを覚えながらも、回されたプリントを後ろへと送る。そして、黙々と問題を解いていった。 あと一問、というところで、わたしはシャ−ペンを動かすのを止めた。阿部隆也に見られていることに気づいたからだ。

「…なに」
「なにって、別に。って意外となんでも出来るんだなと思っただけだけど」
「そんなことないと思うけど。普通でしょ、普通」

かち、とペン先の音を立てながら、シャ−ペンの芯を出す。わたしは最後の問題を迷いなく解き、カツ、と芯を仕舞った。 問題用紙の片隅に、わずかにだけれどシャ−プペンシルの芯の鉄粉がこぼれる。わたしはそれをはたいて、阿部隆也に手渡した。 もちろん、採点をするためだ。別に、見せ合いをするために交換するわけじゃない。そんなこと知ってる? ―― なら、良いんだけど。 わたしは小さくため息を吐いて、阿部隆也の回答を採点する ―― うわ、すごい。満点だ。

「さすがね。十点満点、おめでとう」
「ど−も。もなかなかだったぜ、九点」
「あ−、やっぱり二問目のが難題だったかな…」
「あれな、実は俺もちょっと回答に迷ったんだ。まぁ結果的には合ってたわけだけど」

ニィ、と得意げに話す阿部隆也を見つめ、わたしは意味もなく地団太を踏みたい気持ちになった。これはなかなか屈辱的だ。 言い返せないほどの完敗。いや、惨敗といったほうが正しいかもしれない。どちらでも良いけど、わたしは阿部隆也に負けたのが相当悔しかった。 漢字だけじゃなくて、英語でも、体力テストでも(これは相手が男子なんだから負けてるのは認めるけど)連戦連敗。そろそろ、黒星を挙げたい。 だけど、わたしは何回こいつと勝負をしても、勝てる気がしなかった。何故って、良く分からないけど、女のカン。だったら勝負なんか止めて仲良くなれば良いって? そりゃあそうだけど、こんな奴と仲良くなんてなりたくない、っていうかなれないに決まってる。根本的に合わないっていうか。うまく言えないけど。

「、さん」
「っえ?」
「え、じゃなくて。プリント、集めるからちょうだい」
「え、あ…ごめん。どうぞ」

我に返って、プリントを回収している男の子を見上げる。その表情は明らかに迷惑そうにしていて、わたしは少しだけ申し訳ない気持ちになった。 去り際、わたしは軽く会釈をして、その男の子の背中を見送った。相手が気づいてくれたかどうかは、微妙なところだけれども。 予鈴が鳴り、委員長の号令で全員が立ち上がる。そんなとき、阿部隆也が「いまのやつ、ちゃんと気づいてたぜ」と、こっそり耳打ちをしてきた。 阿部隆也の位置からだと見えるんだ、わたしはそう思ってとりあえず「ありがとう」とお礼を言っておいた。 すると阿部隆也は何を思ったのかひどく驚いた顔をしていつものように無愛想に「…おう」と返事をした、それだけだった。 なんなのよ、ほんとうに!わたしは別に、阿部隆也が仲良くなりたくないって言うのならそれでも良いんだけどね! その呟き声が聞こえたのか、友達は「結局仲良くなりたいんでしょ」なんて言ってきた。誤解だよ誤解!仲良く、なんて!と言うと彼女は当然のようにこう言った。

「…いろいろ考えるまえにやることやりなよ」



071022