※ほぼほぼヒロイン不在の話 さあさあと降り続いているそれは、朝方からずっと、音もなく細い線を引いていた。いや、いまとなってはもうきのうだかおとといのことだったかさえ、定かではない。いつものように予告なく告げられた残業と張り込みと、とにかく張りつめた任務を終えて自分の部屋に戻ってきたときのことだった。 部屋の主は、違和感にすぐ気が付いた。仕事柄ということもあるが、なんというか、こう、いままであった”暖かい”空気が消えて、すっかりと部屋が冷え切ってしまっているのだ。 「 ――― ○? 」 何度呼んでも、バスル−ムや寝室、クロ−ゼットなど至る所を探しても、みつけられなかった。大事な、大事な、彼女のことを―――○の存在を。いつもなら、どんなに遅くに帰ってきても、リビングテ−ブルでうとうとしながらでも、おぼろげな瞳を優しく眇めて「おかえりなさい」と迎えてくれる彼女が、いない。いままでこんなこと、一度だってなかったのに。何も告げずに、いなくなってしまうなんて、こと(ほんとうに、なかっただろうか?)。現状を整理するためにも、記憶を探ってみる。どこかへ出かけるときや、帰りが遅くなるときなどは必ずメールや連絡をくれていたはずだ。「そういえば・・・」何も言わずに自分の部屋を出て行ったことが、一度だけあった。任務対象をかばってけがをしたときのことだ。病室に見舞いにきてくれた彼女は、ポロポロと大粒の涙を浮かべて、言葉も切れ切れに告げただけで、それきり姿をみることが出来なくなってしまった。命を省みない自分に腹を立てていたのだと、また泣きながら訴える彼女に、もう無茶はしないとこれまた少々難しい約束をして、また同棲を再開することが出来た。だけれど、今回は少しばかり訳が違うようだ。 いつも彼女が居眠りをしながら帰りを待ってくれているリビングテ−ブルにあった、水色の置手紙をみつけて、はっと息をのんだ。文面の最後には「いままでありがとう。だいすきでした」の文字。ああ―――どうしてきみはいつも、いつも―――こみあげる怒りや悲しみを込めるように、○の手紙をくしゃくしゃになるまで握りしめる。 「 ○・・・・っ 」 まだ実感がわかないのか、涙は出ない。ただ、がむしゃらに走り出したい衝動のまま、一介の刑事ともあろう自覚も捨てて、鍵もかけずに部屋を飛び出した。目的はない。あえていうなら、みつかるはずもない、連れ戻せる自信もない彼女の面影を探しに―――もっと言うなら、雨に打たれているかもしれない彼女を丸ごと抱きしめてしまいたかった。だけどもう、それすらもかなわない。だからもう、ひたすらに雨に打たれたかった。○も泣きながら打たれているかもしれない、この雨に。 ―――ちりんちりん。人気の少ない路地を曲がったところで、鈴の音が聞こえた。おそらくは飼い猫だろうが、主はどこへ、などと気に掛ける余裕もなくただただ走り続けた。誰ももう、追いかけてくれるひとはいない。あのときのように、大げさに抱きしめてくれるひとはいない。路地裏に佇むカ−ブミラ−に映る自分がとても不恰好に思えて、自嘲するようにくっと口角を曲げる。こんなことに、いったいなんの意味があったのだろう。 「 当然だな。○のこと、仕事にかまかけて放っていたのと同じなんだから 」 息を殺すように、雨でずぶぬれになったワイシャツが張り付く。鬱陶しい。煩わしい―――でも、知っている。きみがくれた優しさや愛しさ。愛し愛されることの素晴らしさを、きみが教えてくれた。きみがもし突然戻ってきたら。何も言わずに抱きしめてしまうかもしれない。それとなく、寄りを戻してしまうかもしれない。そんな都合の良いことを考えながら、相変わらず雨の降り続く空を仰ぐ。いつか晴れると知っていても、きょうはなんだか、いつまでも雨に打たれていたい気分だった。 なくした傘に名前をつける |