「菊さん」近くて遠い場所にいるそのひとの名前を呟いて、小さくため息をはく。あれはもう、何十年も前のことだが、いっしょに暮らそうと諭してくれたひとだった。自身、男女関係云々のそれではないことくらい理解しているつもりだ。独り身となった自分を心配してあんなふうに声をかけてくれたんだろうと、ずっと思っていた。だから、それ以上を期待してはいけないんだって。それなのに、目の前の状況にどう対処すればいいのか、は真剣に頭を悩ませていた。


「 は返していただきます 」
「 それはできないよ。しつこいなあ本田君も。何度も言ってるでしょ 」
「 それはそちらがいくらお話してもうなずいてくれないからです 」
「 その理由は本田君も良く知ってるはずだよね? 」


 「それは、」と珍しく菊が言葉を濁らせる。どうしてこんな事態になったのかというと、あれはほんの一時間前。久方ぶりの再会を喜んだのもつかの間、菊は半ば強引にの腕をつかんで自家用飛行機に乗り込みイヴァンのいる北の大地にやってきたのだが、そこでまさしくこの地にふさわしい絶対零度ともいえる戦いの火蓋が切って落とされたのだ。
 議題は、菊の本拠地である本土でもたびたび話題になっているらしいについてだ。イヴァンの住む国と近いの国は、海産資源が豊富で、いっしょに住みたいと望む者は少なくない。自身に魅力を見いだしてのことではないことくらい、は重々承知していた。白々しい態度、軽薄な愛情、振りまく愛想。うんざりだった。そんな中でただひとり ―――――― 彼だけは。本田菊そのひとだけは、は最初から自分といっしょにいるべき人間なのだと示してくれた。必要としてくれたひとだった。嬉しかった。涙があふれるほどに、嬉しかったのだ。はあのときはじめて、<他人に受け入れられる喜び>を知ったのだ。だから、菊に対して並々ならぬ信頼を寄せている。家族愛に等しいものすら感じていた。だからイヴァンに対して「あなたといっしょにいるわけにはいきません」と一蹴することだってできるのだ。それなのに、それをしないのは ――――― 。


「 迷ってるの?わたし、 」
「 あれっどこに行くんですか 」
「 雪を見たいなって、思って。わたしのでる幕は、なさそうだし、 」
「 ・・・だったらわたしも付いていきます 」
「 平気ですよ、すぐ戻りますし。ちょっとひとりで考えてみたいんです 」
「 行っておいで。帰ってくるころには僕といることを望むようになるよ、きっと 」
「 イヴァンさん ―――――― 失礼します 」
「 。イヴァンさん、あなたというひとは、 」
「 なに、焼き餅?珍しいねー本田君が熱くなるなんて 」


 イヴァンがおもしろそうに笑っている様子を背中に聞きながら、は盛大にため息をはいた。相変わらずあおるのが上手だ。イヴァンが自分を必要としている意図がいまひとつつかめていない以上、すんなりとうなずくわけにはいかないのも確かだ。だからこそ、悩んでいる。できることなら菊と平和に暮らしていきたいものだが、イヴァンもなかなか譲らない。そんな小競り合いがもう何十年も続いている。
 「わっ」「吃驚しましたか」「あっ当たり前です!イヴァンさんとお話されてたんじゃないんですかっ」いつまでたっても埒があかないので早々に切り上げてきました、とを背中越しに抱きしめている菊は笑った。暖かい。

「 ?ひょっとしてまだ迷ってるんですか? 」
「 なんのことですか 」
「 とぼけたって無駄です。だてに何十年、といっしょにいたわけじゃないんですからね 」
「 正直わからなくなるときがあるんです。菊さんの家の人間であることは間違いないはずなのに、ほんとうはーーーー 」
「 自信がもてないんですね 」
「 はい。曖昧なたち位置がいやになってしまったというのもひとつの理由ですが 」
「 すみません、わたしがふがいないばっかりにを寂しくさせてしまって 」
「 菊さんのせいじゃありません。それに菊さんは間違ってないと思います。だからそんな顔しないでください 」


 「そんな顔?みえるんですか?」菊が自嘲するように笑ったのがわかった。背中越しに伝わる菊の吐息が暖かくて、くすぐったい。「わかります。泣きそうな顔をしていますよ。わたしだってそんなに短いつきあいをしているわけじゃありませんから」「そうですか。でもこれじゃあなんだか、恋人同士みたいですねえ」ふふっと、菊が笑う。鼓動が高鳴ってうるさい。このままじゃ、どうにかなってしまいそうだ。


「 もし、 」
「 はい? 」
「 もしわたしがイヴァンさんのところに行きたいと言ったら 」
「 それがのほんとうの望みなら、仕方ありません。わたしは喜んでお見送りしますよ? 」
「 ―――――― 強がっちゃって 」
「 なんですか。喧嘩売ろうってんなら買いますよ? 」
「 ほんとうは寂しいんでしょう?菊さんは、お兄ちゃんかお父さんみたいなひとだから 」
「 ふむ・・・なるほど。まあ良いでしょう、いまはそれで 」
「 へっ?っん? 」
「 話をつけてきます。どうやらぼんやりしてはいられなくなりました 」
「 ちょっ菊さん?わたしはどうすれば 」
「 あなたはそこで待っていなさい 」


 「さっきの口づけの意味でも考えていれば良いです!」となぜか乱暴に言われてしまい、はただただぼんやりと菊の背中を見送るしかなくなった。考えるもなにも、会議のあとに直接聞いてしまえば簡単だろうにと、はひとり首をかしげた。人気のない路地裏。降り積もる雪はやむ気配もないのに、不思議だ。心は温かく、不安がることもない。それはたぶん、自分のなかにあった迷いが消えたからだと、はひとり満足そうにほほえんだ。


このままでは終われない