さわさわ。歌うように風が吹く。きらきら。踊るように、光り輝く。目の前に広がるのは空の青と、冬の眠りから目覚めたばかりの、青々とした緑。そして、群れを成す桃色の桜。夢の中にいるんだろうかと疑ってしまうくらいひどく綺麗な光景に、思わずため息がこぼれる。「今年も見事に咲きましたね」「まだこちらにいらしたんですか、さん」「菊さん!ア−サ−さんとのおはなしは終わったんですか?」「ええ。時間があるそうなので、お散歩してみては、と声をかけておきました」「ア−サ−さん、わたしみたいにしょっ中桜を見に来られるわけではありませんしね」「ふふっ…ええ、そうですね」お互い決してヒマとは言えない時間の中で、会合の合間に時間をつくってはこうして良く花見をしていた。ひどいときなんて、複数人であることを良いことに会議をこっそり抜け出してぼんやりしていたこともある。そう、俗に言う”サボり”だ。


「 最後は結局、アーサーさんが折れるんですよね。”話の内容は俺が伝えておく”って言って 」
「 ええ。きょうも先ほどそのお言葉を聴いて、思わず笑ってしまいましたよ 」
「 むう…菊さんっ 」
「 だってそのとおりなんですから、仕方ないじゃないですか。ア−サ−さんも笑ってましたよ 」
「 ア−サ−さんまで…まるでわたしが仕事をしない人間みたいじゃないですか− 」
「 事実なんですから、否定のしようがありませんねぇ 」


むう、とまたひとつ頬を膨らませるの頬にそ、っと手を伸ばして、春の風のように笑う菊に、次第に早くなっていく心拍数。「な、なにするんですか…」「には、そんなお顔は不釣り合いです。わたしのまえでは、笑顔でいてください」「菊さん…はいっ。だからあの…そろそろ手を離してくれませんか…」痛いです、と言うと菊は不意に我に返ってすみません、と慌てて手を離した。の頬をみてみれば、薄く桃色になっていた。むに−と引っ張られた頬は、まだ微かにひりひりしていたが、先ほどよりはだいぶんましになったような気がする。


「 今年もまた、こんなふうに菊さんの家で桜を見られて、幸せですわたし 」
「 それは良かったです。ですがまあ、会議を抜け出さなければあとは満点なんですけどね 」
「 もうっ菊さんっ笑いすぎです! 」
「 ふふ、すみません。ほんとうに笑うつもりなんてなかったんですけどね…ふふっ 」


一度笑いだしたら止められないのもまた笑いで、もちろんそれはにもどうすることも出来なかった。ただ頬を膨らませたまま、菊の笑いが納まるのを待つしかないのだ。「折角、この春は菊さんみたいだって誉めようと思っていたのに…もうやめます」「それはご自由に。ですがどうしてまた、そんなふうに思われたんですか?わたしは…こんなふうに、綺麗な人間ではないのに」「菊さん…」心なしか寂しそうに微笑んで肩を落とす菊に、は”そんなことないです”とふるふると首を振った。


「 ひとはだれしも”綺麗”ではありません。それはわたしにも言えることです。
  中にはそういうひともいるかもしれませんが…。そうですね…菊さんには春が良くお似合いだと…、要はそう言うことです 」
「 …ありがとうございます。そんなふうに言われると、なんだか照れてしまいますね 」
「 照れた菊さん、珍しいです。可愛いです 」
「 可愛いって…あのですね。こう見えてもわたしはずいぶんと”お爺さん”なんですよ? 」
「 そうなんですか?すっかり忘れていました。ふふっ 」


「まったく…仕方ないですね−」ため息交じりに菊はそう言って、ちらりと後ろを振り返った。「ア−サ−さん!お戻りでしたか」「ア−サ−、さん?」「立ち聞きするつもりはなかったんだが…ふたりがあまりにも楽しそうだったんでな。なかなか入れなかったんだ」「そうでしたか(チッ)すみません、気付けなくて」「いや、大丈夫だ。俺のほうこそ悪かったな(舌打ちが聞こえたような…?)ほら、きょうの資料だ」「あっはい、ありがとうございます!」「まったく、ほどほどに頼むぞ」「へへ、ごめんなさい−」「所詮わたしは年寄り…か」とてもちいさな声でそう呟いた菊は、若いふたりをほんのすこし、寂しそうに見つめた。


「 ? 菊さん、何か言いませんでした? 」
「 いえ、なんでもないんです。ア−サ−さん。日本の桜、気に入っていただけましたか? 」
「 ん?ああ、すごく良かったぞ!俺の国には改めて花見と言う文化がないもんでな、興味深かった 」
「 そうですね、また見たくなったらいつでもいらしてください 」
「 ああ、そうさせてもらう。もちろん、会議の途中で抜け出したりサボったりしないから安心しろ 」
「 存じてますよ、ア−サ−さんはさんと違って真面目ですもんね 」
「 も−っア−サ−さん、菊さんっ!わたしも気をつけますから、そんな顔しないでくださいっ 」
「 頼みますよ?。あとで大変なのはア−サ−さんなんですから 」
「 まったくだ。こっちの身にもなってもらいたいもんだな 」


ふたり揃って口々に言われてしまい、もはや言い返す言葉のない。「も−っ知りません!帰ります!」「おい待てって…!すまなかったな、菊。世話になった」「いえ、久しぶりにお会い出来て楽しかったです」「それは…とのことを言ってるのか?」「どういうことです?」「いや、なんでもない…忘れてくれ。じゃあまたな菊」「はい。のこと、よろしくお願いします」「?おお」いまひとつ意味の通じていないらしいア−サ−は小首をかしげつつ、書類の束をなびかせて、慌ててのあとを追った。そんな彼女はと言うと、もうずいぶんと先のほう。菊はそんなふたりの背中をどことなく寂しそうに見送り、が”自分みたいだ”と言ってくれた桃色の花群れを仰ぐ。もうすこしだけ、この夢のような時間にすがろうとするかのように ―――― これ以上、離れてしまうことのないように。菊はそっと、空を掴んだ。




切なさも夢の跡
( 春爛漫、だけどちょっぴり寂しげな菊様でした )