「遠いところをようこそお越しくださいました、さん」日本の家独特の日本家屋のまえに立って、この家の亭主、本田菊さんは丁寧な口調でそう言った。「は、はい…」「お疲れでしょう。温泉、入ってみません?」「温泉?」ぱああ、との表情が輝いたのを、菊は見逃さなかった。かつての親友、ア−サ−からは「滅多に笑わない子だから」というふうに聞いていたからだ。実に喜ばしいことだが、菊は内心複雑だった。何に対して、と聞かれればもちろんかつての親友に対してだ。「すみませんア−サ−さん…我慢ならないかもしれません…」ちょこちょこと後ろをついて歩くをなんとなく気に留めながら、菊は盛大にため息を吐いた。 「 ―――― どうぞ、こちらです 」 「 わ…あ… すごい、湯気…ですね 」 「 転ばないように、気をつけてくださいね。バスタオルと着替えはここに置いておきます 」 「 ありがとう ございます? 」 「 どういたしまして。わたしはお茶の用意でもしておきますね、ごゆっくりどうぞ 」 ふわっと、心底嬉しそうに菊さんが笑う。ほんとうに優しい人なんだなあ、と心の奥がぽかぽか暖かくなっていくのを確かに感じながら、は日本の温泉に、はじめて浸った。第一印象は ――――― 「熱い…」だったけども、長く入っていると非常に心地の良いものだった。冬に入ったら最高だろうなあとも思う。調べて分かったことだけども、この温泉にはいろいろな効果があるらしい。入っているだけで気持ち良いのに、身体にも良いなんてすごく贅沢だ。菊さんの健康の秘訣は、この温泉にもあるような気がした。程よく温まったところで、湯船から上がるとすこしだけ目眩がした。すこしばかり、長湯しすぎたのかもしれない。 「 あ…、ル−ャさん。温泉、どうでした? 」 「 えと… すごく、気持ち良かった…です。ありがとうございます 」 「 どういたしまして。こちらへどうぞ? 」 居間に行くと、テレビを見ていたらしい菊さんが心なしか寂しそうにほほ笑んで、そんなふうに手招きしてくれた。テ−ブルには八橋と茶柱を立てたお茶がふた組あって、は遠慮がちにこたつの中に足を入れた。温かい。まるで菊さんそのものみたいだ、と思った。温かくて優しくて、なんだか涙が出そうだった。「さん?」「ふえ?」「どうして、泣きそうな顔をしているんですか?わたし何か…」明らかに動揺している様子の菊さんに、はふるふると首を振った。「なんでも、ありません」「…そうですか」菊さんは淡々とそう言って、ぽんぽんと頭をたたいてくれた。理由を聞かないのは菊の美徳だ、と兄に菊さんの性格のことを教えられたことがあったけど、ほんとうにそうだなあと思った。アルフレッドさんだったらきっとすぐに理由を聞いてきていろいろしてくれようとするだろうけど、どうにもならないこともある。菊さんはそういうこともあるって分かっているから、なにも聞かないんだろう。ほんとうに、心の優しい人だ。 「 あ… アルフレッドさん… 」 「 すごいですよね。ノ−ベル賞ですって 」 「 でも… 」 「 ん、ルーシャさん? 」 「 もどかしい…です。歯がゆい…です 」 「 どうしてさんがそんな顔をするんですか?コロコロ、忙しい方ですね 」 菊さんはそう言って笑ったけど、はぜんぜん、笑えなかった。むしろそんな菊に、怒りさえ覚えた。「菊さんは…優しすぎます」「今度はお説教ですか?」ぶんぶん、とが首を振る。「ほんとうは…悔しいんじゃ、ないですか…?」「悔しい?どうしてですか。非核のために、アルフレッドさんが尽力してくださると言っているんですよ、望ましい限りです」「でも… 被爆の痛み は…菊さん、にしか…分かりません」「…!」「それなのに…許せない、です」「わたしが…?」「いいえ。アルフレッド…さんが…です。核を落とした人間、が…あんな」「良いんですか?幼馴染をそんなふうにいじめて」自嘲するように、菊さんが笑う。だけどもは、そんな菊をまっすぐに見据えてしっかりと頷いた。 「 ―――― いまだけ、です。それに…アルフレッドさんは…ここには…いません 」 「 さん… 」 「 ? 」 「 あなたは悪い人ですね…そんなことを言うような方には、到底見えないのに 」 「 ずっと感じていた…ことでした。受賞する、資格があるのは…菊さんだと 」 「 さん。良いんですよ…被爆は、賛美されるものなんかじゃありません。背負うものです 」 「 背負う…もの… 」 「 はい。ですから…もう良いんです。さあ、ご飯にしましょう。手伝って、いただけますか? 」 菊さんはよいしょ、と腰を上げてすこしだけ寂しそうに笑みを浮かべた。このおはなしはこれでおしまいだ、と見切るように、菊はが頷くのを見届けると彼女に背を向けた。頼りなく、ひどく優しい背中。はなぜだかたまらなくなって、その背中にぎゅっと飛びついた。「わあっなんですかさん!」「ご褒美です−」「ご褒美って…もう、どうなっても知りませんよさん」「はい?」コトンと、背中越しに首をかしげるを思うと、くすぐったくなった。きょうに会わせてくれると言ったア−サ−に感謝しなくちゃな、なんて思う反面菊は胸中でこっそり彼に謝罪した。「すみませんア−サ−さん…やっぱり我慢、出来なさそうです…」 同じ苦しみを受け取る必要はないよ |