音楽の授業はすきだ。どうしてって、それはもちろん人知れず居眠りが出来るから ―――― じゃなくて!オ−ストリア先生の素敵な演奏を聴くことが出来るからだ。先生は普段あまりひとと交流を持とうとしない分、こうして音で自分の心を教えてくれる。だからわたしは ―――― いや、わたしたちはオ−ストリア先生がほんとうに優しいひとだということを知っている。椅子に縛りつけられている授業よりも、年頃の男女であれば運動だったり身近な音楽鑑賞だったり。そういった感覚的なものを好むと言うことも、あながち否定出来ないのではないかとはオ−ストリア先生の演奏を聴きながら、ふとそんなふうに思った。


「 ――― 委員長。委員長! 」
「 ふあ? 」
「 まったく…ふあ?じゃないでしょう!授業は終わりました、号令 」
「 あっ…ごめんなさい!演奏に聴き入ってたらつい…起立!気をつけ、礼! 」

「ありがとうございました!」ガタガタと机の動く音が雑音のように聞こえて、すこしだけ煩わしい。はぶんぶんと首を振って、行き交うクラスメイトたちの「寝てたでしょ」「ご苦労さん」「聞き入ってたんじゃなくて、恋煩いなんじゃない」というどこか意味の含んだ言葉を乾いた笑いを浮かべながら受け流していると、ぽんと肩にひとの手が置かれた。「…オ−ストリア、先生…!あのその!先ほどはすみませんでした…っ!」「このおバカさんが」その声には確かに怒気が含まれていたのに、表情はひどく穏やかで、何か花を愛でるかのような眼差しで、を見下ろしている。なんだろう、ただそれだけのことなのにドキドキ、心臓がうるさい。


「 まあ…委員会に部活動、大変なのは分かりますがメリハリがなってませんね 」
「 うっ…おっしゃるとおりです… 」
「 まさか夜更かしでもしているんですか?ほんとうに恋煩いなんですか? 」
「 せ、せんせい?近いです…!顔がすごく近いです…! 」
「 あ…すみません、わたしとしたことが…取り乱してしまいました 」


ゴホン、と小さく咳払いをしてくるりとに背を向ける音楽担当の先生、オ−ストリアは「そんなにわたしの演奏が聞きたければ、放課後音楽室に来てみなさい」「え?」「わたしはだいたい、その時間に練習をしています。もちろんが部活のない日は、ですよ」そう言って、ふわっと温かな笑顔をみせてくれた。その笑顔が、聞きにくるくらい問題ない、迷惑じゃないって教えてくれているみたいだった。不器用だけど、とても優しい人。週末のある日、珍しく弓道部がお休みになって、なんとなく先生の言いつけを思い出したから、ふらりと音楽室に立ち寄ってみた。そうすると、やはり聞こえた ―――― パッヘルベル、<カノン>だ。この間聞かせてくれた、眠りに誘う旋律。は校舎の外から窓辺に伏せて、静かにその演奏を聴いていた。心地良い ―――― 。


「 、来ていたんですか 」
「 せんせい!きょう部活が休みだったんです!だからすこしお邪魔してみたんですけど… 」
「 そんなところにいないで、中で聴いたらどうです?風邪を引いても看病しきれませんよ 」


「はあい」と言って、むすっと膨れるを愛おしくみつめるオ−ストリア。だけどもは、彼のその視線に気づいていない。そう ―――― は教師陣さえも唸らせる、究極の鈍感なのだ。学校中でそのうわさがささやかれながらも、本人はそんなことはないと言い張っているくらい、超鈍感だ。そのが、気付くはずもないのだ。だからオ−ストリアは気付かれないように眼鏡を押し上げて、こっそりとため息を吐いた。「困った人ですねぇ…あなたも」「はい?先生なにか言いましたか?」「なんでもありません。まだ練習中の楽曲なんですが、構いませんか?」「練習中って…この間すごく上手に弾かれていたじゃないですか」「あれはマグレなんです。特別に教えてあげますよ、不安なときのおまじない」「おまじない?」キョトンとが首をかしげ、オ−ストリアがまたくいっと眼鏡を押し上げる。あまり見慣れない光景に、は再度首をかしげた。


「 あなたをみつけるようにしているんです、自信のないときは 」
「 わ…わたし、ですか? 」
「 そうです、。あなたのことは、あなたの大親友から聞いていてある程度知っていました 」
「 そっか…ハンガリ−ちゃん吹奏楽部だもんね…。それに先生のことすごく信頼してるって言ってたし 」
「 そうだったんですか… それならわたしは、彼女に謝らなくてはいけませんね 」
「 え…どうしてですか?先生はなにも悪いことをしていないのに 」


そう言ってみても、オ−ストリアは苦痛そうな表情を浮かべたまま首を振るばかりで、何も教えてはくれない。その代わりと言うように、再び音楽室に<カノン>が流れ始めた。この時期の日暮れは早く、吹き抜ける風もどこかひやりとしていて冷たい。「くしゅんっ」が小さくくしゃみをすると、オ−ストリアはさっと演奏の手をとめて自分の羽織っていたコ−トをに着せた。「あ…ありがとうございます…」「風邪をひきます、行きましょう」「え…行くって?」「寮までお送りしますよ、付き合ってくれたお礼です」「そ…そんな!先生だってお忙しいでしょうしいけません、そんな」「わたしがそうしたいんです。いけませんか」まっすぐにみつめられて、やっぱりノ−とは言えなくなってしまう。ひょっとしたら先生たちはのそんな性格をとっくの昔に見抜いていたのかもしれないなんて、学校一の鈍感であるに想像出来るはずもなく、しぶしぶオ−ストリアの申し入れを承諾した。


「 ―――― ありがとうございました 」
「 こちらこそ。温かくして、おやすみなさい。ヒマなときはいつでも聴きに来ると良いですよ 」
「 良いんですか? 」
「 ええ。というより、ぜひそうしていただきたいですね、こちらとしては 」
「 ? どういうことでしょう… 」
「 こういうことですよ、 」


ふわっと、オ−ストリア先生の顔が近くなって、唇にかすかな熱が触れる。は突然の出来事に吃驚して、眼をぱちくりさせていることしかなにも出来なかった。と距離を置いたオ−ストリアの顔はみるみるうちに真っ赤になっていって、「せんせい…?」もまた名前を呼ぶことで精いっぱいだった。「あ…あのその」「は、はい」「すみません……!こんなことして…でもあの、わたしだって負けませんから!」「え…え?」「可能性があるなら振り向かせてみますから、を…!」「あの、せんせい…!?」言いたいことだけ言って暴風のように去って行ったオ−ストリアの背中をぽつんと見送っていたが現実に戻って来たころには、満月はすでに東の夜空から顔をのぞかせていた。



革命前夜のイントロ