![]() 「ひ、被服かあ…」黒板に並んでいる、菊先生の丁寧な文字をみてクラス委員長の・はがっくりと肩を落とした。「料理とかなら大歓迎なのになあ…」「ふふ。、裁縫苦手ですしね」そんなふうに笑みを浮かべながら話す大親友は、隣の席に腰かけて裁縫セットを取り出した。もしぶしぶ、毛糸と裁縫道具を取り出す。そんなの様子を見かねた親友が、何かおもしろいことを思いついた子どものような顔をして「まあちょうど良いじゃないですか。これから寒くなりますし、すきな方へのプレゼントだと思えば」と言って、ウインクなんかを寄こした。 「 すきなひと…? 」 「 課題もちょうど編み物ですし、いっしょにがんばりましょう! 」 「 ハンガリ−ちゃん…!ありがとう…! 」 「 ところでは、マフラーと手袋と帽子とセ−タ−、どちらが良いですか? 」 「 え…?わたしに…? 」 「 ええ。なかなか買い物に行く時間がないと嘆いてたでしょ?どのみちあげる人がいなかったから… 」 「 ハンガリ−ちゃん…覚えててくれたんだ。ええとそれじゃあ…手袋にしようかなあ。でも難しそうだよ? 」 「 大丈夫です。のためならがんばれますっ 」 「無理はしないでね?」は最後にそう付け加えて、すこし困ったように笑みを浮かべた。だけども意気込んでいる様子のハンガリ−には聞こえていないようで、はまたふふっと笑った。「おや、はマフラ−なんですか?」「え?わあっ本田先生っ」「研究熱心なのは構いませんが、授業は終わってしまいましたよ?」「ええ…!そ、そうですか…っすみません」「いえいえ。一生懸命なをみているのはとても楽しかったです。あちらでハンガリ−さんがお待ちですよ」くすくすと、風のように優しい菊先生の笑みに、どうしてだか恥ずかしくなってしまう。すべてお見通しなんじゃないかって勘違いしてしまうほどに。すこしばかり顔を赤くしながら片づけをしていると、しばらく何か思案をしていた様子の菊先生がちょっとだけ嬉しそうな顔をした。 「 ―――― そうです、 」 「 なんですか?先生 」 「 課題、早く終わらせたいでしょう?放課後ここに来てください。お教えしますよ 」 「 えっでも… あのっハンガリ−ちゃんもお裁縫得意だしハンガリ−ちゃんに教わります…! 」 「 でも、の予定だと門限すぎちゃいますよ?それに…はそんなにわたしに教わるのが嫌なんですか? 」 「うっ…」やっぱり、菊先生にはかなわない。が項垂れて「お願いします…」と言ってみれば、菊先生は心底嬉しそうな笑みを浮かべて「あなたはお利口ですね」と言ってぽんぽんとの頭をたたいた。「ずるいです…」「ん?なにか言いましたか?」「なんでもありませんっ!失礼しますっ」ぷんぷんと怒りを隠そうともせずに、はハンガリ−の待つ廊下に駆け出した。「なにを話していたの?菊先生と」目ざとく尋ねるハンガリ−に、一瞬ドキリと心臓が高鳴った。別段、疾しいことではないのに彼女には教えてはいけないことのような気がしたのだ。「なんでもないよ?ちょっと怒られちゃった。研究熱心なのは良いけど、授業は終わってるよって」「ふうん。まああなた、このわたしが話しかけても一心不乱でしたしね」「うっ…ハンガリ−ちゃんごめん…」「大丈夫ですよ、。それよりあれは…なかなか手強そうですね」「あれって?」「菊先生ですよ。下心見え見えなのに周囲にはぜんぜんそんなそぶりをみせようとしないなんて…プロです」「したごころ??」ひとりうんうんと納得しているハンガリ−の隣で、はひたすら首をかしげていることしか出来なかった。 「 、部活ご苦労様です 」 「 き、菊先生!先生こそ、お仕事お疲れ様です… 」 「 ありがとうございます、。道具は忘れていませんね 」 放課後、弓道部の部活を終えたばかりのは着替えも手短に昼間菊先生に言われたとおりこの家庭科室にやって来た。もちろん、フィランドにプレゼントするためのマフラ−を完成させるためである。提出期限までそれほど時間がなかったため菊先生の申し出を受けたわけだが、きのうのきょうですこしばかり安請負いをしてしまったのではないかという思いがなくもないが、後の祭りだ。課題を終わらせることに集中していれば、問題ないだろう。はそう思うことにして、黙々と作業を始めた。「ああ、違いますよ。そこは」「…!」不意に、菊先生の手のひらが自分のそれに重なって、は吃驚した。ただそれだけのことなのに動揺してしまうなんて、この間の一件はよほど自分にとって衝撃の大きかったことだったのだといまになってそんなふうに思わされる。 「 …手。冷たいですね 」 「 え?あ…そうですか?気付かなかったです 」 「 こんなにかじかんでいては、弓を引く時に怪我をしやすくなってしまいますよ。 暖房を入れて…、なにか温かいものでも用意しましょう。すこし休憩するのも良いかもしれませんね 」 「 え?あ…すみません、いろいろ…何かお手伝いします 」 「 大丈夫ですよ、はそこで待っていてください 」 立ち上がったを制して、菊先生はやわらかくほほ笑んだ。「菊先生は…優しいなあ」フィンランドみたいだ、と思った。おなじくらい優しいけど、彼と混同してはいけない。フィンランドと菊先生とは、まるで次元の違うひとだ。優しいけど、おなじじゃない。別のだれか。優しいからと言って、菊先生に甘えるわけにもいかない。そんなふうに思ったら、やっぱりこんな現状はだめだ。分かっていたのに、菊先生のあの的を射抜くような瞳をみていると、断れなくなってしまうのだから不思議だ。鋭く光る漆黒。 「 お待たせしました… あれ、寝てる 」 湯呑をふたつ手にして戻って来た菊を待っていたのは、の静かな寝息だった。思えば部活のあとだ、無理をさせてしまったのかもしれない。「わたしとしたことが…焦って、に無理をさせてしまいましたね」「んん…」自分の羽織をに着せ、向かい側で頬杖をついての寝顔をみつめた。には容姿だけじゃなく、ひとを惹きつける魅力がある。だからこそ、自分は無意識のうちにに心を奪われていた。そんなことはいけないと、許されるはずがないと分かっていながら、強く惹かれた。だからがフィンランドのことをすきだと知ったときは許せなかったし、真剣に動揺した。どうして自分ではなく、フィンランドなんだろうと悔やんだりもした。そんな思いの数々が菊にへの思いを気付かせたのだ。 「 …あなたはいけない、ひとですね。 こんなにもあなたのことを思っている人間がいるのに…、あなたは見向きもしないなんて 」 そっとの前髪に触れてみる。サラサラと流れるような繊細な髪が、指の隙間を通り抜けていく。そのたびに、支配されていく ―――― あの感情に、また。「んっ…あれ、わたし…」「」寝ぼけ眼のが愛おしくて、菊はぎゅうっとを抱きしめた。温かく優しいぬくもり。このまま手放したくないとさえ願った。「ちょっ…菊先生…?なんですかいきなり…!」「なんでもないんです。眠気覚ましですよ」「び…吃驚するじゃないですかっ。先生はわたしの寿命を縮めるつもりですかっ」「とんでもありません。それより、きょうはこれくらいにしましょう」「え」「わたしが迂闊でした。寮までお送りしますよ」「菊先生…?だいじょうぶですっ!これくらいなんともないですから!きょうはありがとうございましたっ」満面の笑みでそう答え、はぺこりと頭を下げて家庭科室を出て行った。「はあ…危なかった…」そんな菊の呟きは、ため息とともに人知れず消えていった。 君に溶けてなくなりたかった |